この記事では、現代短歌PD文庫の一つとして窪田空穂の詩歌集『まひる野』の全文をHTMLで提供するものです。
底本情報
- 底本:現代日本文学大系 28
- タイトル:まひる野
- 著者:窪田空穂(1967年没 > 2018年公有化)
- 出版者:筑摩書房
- 出版年月日:昭和48年8月15日
初出は次の通りです。
- タイトル:まひる野
- 出版者:鹿鳴社
- 出版年月日:1905年9月
まひる野
椎がもと
われと見る皐月すゞしき夜の風のわが面影を吹きては消すと
照る月の影やくだけて袖にこぼれ拾ふに消えて現なき夜
来ては倚る若葉の蔭や鳥啼きて鳥啼きやみて静寂にかへる
緑揺する風や洩り来る日の影や林は見する夢遠き国
浅緑敷きては遠き草の中わがふる里の響きこゆる
落葉衣わびて倚りける古き縁染むや若葉の香のゆらめきて
朝靄や一本百合にまつはりて露と結ぶをあはれと見るかな
人とわれ黙しても立つ磯の上波まろらかに走りて還る
冴ゆる笛や聴きつゝ立てば青海の彼方の島に君とあるごと
潮干潟波が残しゝ貝の殻のひとつを愛でゝ袂に秘めぬ
さゞ波や海の宮より現れてわれに乗れよとささやぎ照れど
白珠の大き冠のくだけては落つると鳴りぬ遠き雷
青嵐胸たゞよはす子雀の飛ばむともする翅のふりや
かひなくも流せる涙かゞやきて今日よろこびの眼に甦る
大き御息わがためにしも洩らさすと遠くあふぎぬそよ風の夜
わが胸に触れつかくるゝものありて捉へもかぬる青葉もる月
縁に落つる棟のかげの小揺ぎを指もてとむる山の輿かな
黄昏の神やいまさむ水につゞく棟の社の枝ひろき蔭
思ふ人ありては添ひつ静かなるかゝる景色に涙おとさば
野に遠き葦の小笛よこの宵を聴きて覚め来む魂もあるべし
手を伸べていづれと摘むにたゆたひぬ笛にと思ふ清き茎草
茎草よ中に葉守の神まさばわがこむる息待ちていまさむ
露にぬれてゆらぐ朝野の細き草吹かば鳴るらむ茎にあるべし
試みに吹きぬる笛の音の冴えに心おごりの青葉牕かな
そゞろにも逐はるゝごとき思ひして京に入りけり青葉するころ
行き行きて若葉のかをりたゞならぬ神の忌桓に迷ひ出でにけり
落ちよ滝日のかげ白く照らすらむ真夏しばしのほどにあらずや
谷遠し青一色の麻のかぜ小木曽をとめの唄の声する
藤若葉ゑがきて影と戯れつ風来て揺るにおどろき別る
はかな心地涙とならむ黎明のかゝる静寂を鳥来て啼かば
さまよひて黎明行けば木下闇なほわが路のあるにも似たる
覚めはてぬ夢や鳥の音くゞもりて朝靄まとふ椎の下路
露のたま細葉に忍ぶひそめきもさやかに聴きぬ朝の野にして
江の水の覚めてゆらめく黎明を別れもわぶる夜の面影
さめやらぬ夢を若葉にこもらせて皐月のころを里に住まばや
夏に見る大天地はあをき壺われはこぼれて閃く雫
大海の波たはぶれて足に寄ると立ちぬ青野の薄月の中
夜は月の憩ひの御座昼はわが挿頭の花を摘まん青野よ
天の星よろこびありて揺ぐとも怖ぢて悸く夜とも仰ぎし
何はあるも神は安きに導かむ東は京か舟流れ行く
朝逍遥
砂白き磯につくばひ秋の日を大海原に手を浸し見る
早瀬の水時に手をもて偃きて見つ時に声立て追ひても見たる
傷を負ひて穴に脱れし子兎のまたも月夜を忍び出でにけり
音立てゝ踏むにくづるゝ霜柱母に別れて里出でて行く
帰りゆく秋の燕のあと追ひてふる里遠く離れこしわれ
若き夢や朝はうれしみ夜は憎み路に立ちても路行かぬごと
袷着て棗いろづく下蔭に来てはたたずむ物惑ひ顔
花野めぐり走せ行く水や手ひたして冷きにしも驚くものか
朝にしてたのめし夜に似もやらず雁は啼けども月は照れども
吹きおろす夕山嵐たとふればやはき手執りて走すらむわれか
憧憬やある夜おもかげ変らせてわれに白歯の寒きを見せぬ
酔心地さめて驚くこの昼を岡にのぼりて遠く眺むる
野の路をまがるとしてはかへり見ぬ杉の木蔭の壁白き家
わが心老いはせずやとあやぶみて涙落しぬ雁の啼く夜
むかし聖き霊場とめて捧げゆく歌とも聴けり雁なく声を
夢追ひて春をたどりし路に似ぬと雁よ嘆くか翅もやつれて
あゝ荒き嘆きや汝れは雁は天も動けと啼くにも似たる
汝が嘆き聴けば天飛ぶかりがねよわれも愁ひは泣きて棄つべし
月出でぬひと片寒きゆふ雲の白く照りては消えなむとする
雲よ汝は夜のにほひに憧れて浮れ出でたる天なる蝶か
細く靡くひと片雲よくづるゝな眼にも消ゆなと祈らるゝ夜
夢覚めつ起ちて眺むるわが眉に続きて照れる大野の雲や
ふるき嘆き忘られかねて幽囚の身に似るわれぞ雲よ照れかし
憧れつ新しきえぬわが胸のおぞきに似ぬや天飛ぶ雲よ
雲よむかし初めてこゝの野に立ちて草刈りし人にかくも照りしか
わが世去らん刹那に似たる思ひしつ夕静けき雲を仰げば
夢くらき夜半や小窓をおし開き星のひとつに顔照らさしむ
呼ぶとしてふとたゆまれぬ紅き白き芙蓉の園にまぎれ入りしひと
夜をそゞろ園に出でゝは秋花の繁みの中に顔埋めて見る
細く洩りし灯影消えたる真夜中を弦鳴らしぬ木のこれの院
瓜見ゆる宵の畑路いつしかに祭賑ふ市に来にけり
行きて見ば萩やしげらむ思ひする朝さやかなる小野の彼方よ
松の葉の寒きかげ踏む岡の昼袂あはせて遠く眺むる
この岡の萩の芽わかし白砂の山の兎よ月に出で来よ
椎の木に朝眺めし鳥の巣の濡るゝさま見ゆ夜の雨にして
燭とりてものゝけはひにうかゞへば闇に立ちけり一本銀杏
鈍色のおん衣よそほひ立つ神の面影見せて秋の風吹く
秋は来ぬ社にこもりて啼く鳥の澄みてするどき響を聴けや
夜ふかくいづこともなき響して秋しる神の悲しむに似る
秘め持てるゆゑある瓶のはかなくも破るゝに似たる秋の響や
秋草の蔭に隠れて呼びて見むか唄声きよき棉摘みをとめ
忘られてたゞに荒れぬる名所か立ちてわが見る露の萩原
彼の白き一群萩をめぐり見ば清水流れむ野の旅人よ
いたはらむ身をも忘れてそゞろにも露の萩原裾濡らしけり
海越えてかへる燕の声に似ぬ草野ほのかに聴えくる笛
風低し秋のさやぎを身にしめて誰れ待つとなき門にゐよりし
秋の日や見し朝顔の花おもひ蔓を手ぐりて種子もとめけり
落栗の焼くる間待ちて唄ひにし唄の童のおよづけゝむか
摘みし草に誰が名負はせむ佐久のゆふべ千曲の川の北に流るゝ
鳥は鳥屋にわれは昔の夢にかへる夕影さむく花に入る時
小夜中を君にと濡るゝ雫原寒き袂の月となりけり
思出のなみだ今宵はうれしきに音を潜めよ市わたる風
紫の葡萄をのぞく小雀の眼たゞよはし秋の風吹く
秋はしも神のたまへる饗宴ぞ空の百鳥おりて野に酔へ
思ふこと隈なく語る虫の音かわれは眠らぬ枕の方に
ありとなき風のそよぎにさそはれて乱れてさやぐひと本薄
さだ過ぎし女か秋ゆく野に立ちてゆらぎて見する一本銀杏
白露や萩のかをりをふくませて揺ぎつゝゐる鳥来て飲めと
葉にこぼれ花にこぼれてわが髪に香をば染ますや露の日向葵
秋風に翻り飛ぶ紅葉や疾くとおもふが疾くも飛びぬる
風の来て床のふる琴鳴らす日を忘れてありし物をこそ思へ
朝寒の袂さぐりて秘めおきしうれしの夢の消ずやと惑ふ
夢は逃げぬ戸に来て歌ふ鳥の音にふと耳かせるわが怠りに
夕逍遥なごみごころを波に憎み小暗き方に石投げてみる
老いに泣き若きいたみてたま〳〵の故里の夜を静心なき
秋の野やなにゝ怖ぢてはさはさわぎ隠れまどふか翅白き鳥
流れ去りし舟に今宵の泊おもひ佇みにけり利根の川辺に
こほろぎのこほろぎ恋ひて音をつくしすだくさま見ゆ露草のかげ
惑ひ泣く行けば悲しき旅の路行かずば寂し里の隈ぞと
古き縁や天の座くづれ黒雲のあらはれ飛ぶと悸き見る夜
貝の殻殻と幷びて踏みゆくに生命かなしき磯の路かな
戸を閉して叩けど開けぬ旅の夜に似たるからさを故里に見し
梟の戸に啼く夜半や手にもてる筆あやしくも消えゆく思
夕庭や栗の実落つる音きゝて閉したる門をまたも開けゝり
夕映えに照りては揺ぐ野の草や鎌かせ童われも此処にゐむ
わが路の行手さへぎり泣きて止むと見しは夢かや昔の少女
手枕の夢にぞものは忘れけるうれしいかなや酒といふもの
秋風や路に立ちてはふりかへる老女の顔を白くも吹くかな
水仙
眺めをればあやし五つに九つになりても見する一花水仙
黄の蕋を真白につゝむ水仙のふとあらはれて闇に消えぬる
山祇のいまさぬ冬を山に入りこぼれ松葉を掻きてぬすみぬ
盗人のさわぎはやみて山里の夜の明方を雪ふり出でぬ
ぬるみ風巷の雪をわたる夜ぞ緒まきかへせ艶なる人よ
立ちつゞく松のけはひの神さびによしのありげに行きをはゞかる
年逝く日筥にをさめし夏衣香やのこるかと嗅ぎてもみたる
海に来て磯にくだくる波の音にものつぶやかる年の逝く日を
そよ風
昨夜の夢おくりて今朝の東雲のにほひに染まむ如月のわれ
春ちかし去年のうぐひす谷かげに歌ならひつつわれを思ふや
花咲かむ夜とも思ひてともし火に油添へては照しけるかな
花待つとおもふに髪はきよき香の染みて揺ぐと惑はれもしつ
朧なる夜半や対へど手にとれぬ人とも見えて涙ながるゝ
春立ちぬやがては花もにほふべしと思をつなぐ天地の前
たま〳〵に鳥なまめきて牕に啼く春を浅しとわがかこつ日を
寐るとすれ花を抱くに落ちもゐず闇が洩らせる息か微風
微風よ汝が手ひろげて抱きよるに花は揺めく消ゆかにしては
夜の風遠のをとめが黒髪のかをりもまぜていざよひぬらし
夜を寐ぬ春の心をいとほしみ微風のうちにわれも袖振る
黄昏や鳥は花間にわが魂は天のこほひにあくがれ往にし
花に寐る小鳥の夢をすかし見てときめき心地野の月に行く
わが植ゑし花は咲きけり思はれて思ひよるなる女とも見えて
摘むとすれば菫は指に揺めきぬ天のにほひの紫ふかく
夢にしてわが憧れし花に似ず春はかへりて眼に満つれども
夢の台くづるゝ響聴きしかな花白く散る春の夜にして
脚とめて聴くや木ぬれの鳥の声さゝなく節の人しのばしむ
蕋の香に染みぬる嘴をひらきては鶯なきぬ黎明時を
紫の小草がくれのかよひ路をわれに見られし野の鼠かな
寐ねがてに鬢の毛をかむたをや女の姿も見えよ朧の月夜
咲きのこる花の紅きを摘みためて夕立ちけり野の路にして
はるかにも眺めやらるゝ春の朝行くに渡りぬ小野の浅水
われと識らぬこの悲のゆゑを説けと人わりなくも春の夜を泣く
雨に啼く小野の雉子の声に似ぬ桃ちる夜半を旅に聴く笛
惜しみては油添へても語るかな桃咲く里に稀に見る夜半
二月の日天に夢みて夢の数落しゝと見る白梅の花
梅の溪こゝに生れてこの花を嚙みて育ちし鳥もやあると
雪寒うこぼるゝ中にうぐひすの啼く声聴きて如月送る
春の夜老いにし女の化粧して花にあゆむをあはれと眺めし
桜の夜更けて散ぜぬ衆人のさゞめくさまを隙し見るかな
頭うづめ花と花とのさゝやきのありやと思ふ静かなる夜
黒き白き蝶のあまたの胸に生れ飛びさるごとし花に対へば
さみしくて野をさまよへば紫の一本小花眼にひるがへる
湧き出でゝ草にほのめく小野の水有明月夜すかしても見る
海のはな山の花もて路敷かむ夢もて来よや夜を守る神
われさみし覚めよ小鳥と笛吹きて有明月夜野を行きし子よ
朝霧の消えのまに〳〵こち〴〵や覚め出でし花の野に飄る
慣れてわれ秋の寂にもおごりしをなぞや涙の春にこぼるゝ
手招けば波も寄り来る春の海白き真砂に腹ばひて見る
憊れたる魂よひと夜を谷川の荒き瀬の音を追ひて走りし
大海の潮のかをりもこもるべし秘めてはをしむ筥の中の貝
あこがれ
見て思ふ君に会ふべく二十年をわれは夢路に憧れ泣きぬと
一時よ闇に照るなる電とわれに生命の値を見する
わが息に枯れにし花も咲くと思ひ笑みても見たる君に添ふ夜
眼閉せど浮かみもかぬる面影や君は春吹く微風のごと
戯れに人と別れつ邂逅ひてほゝ笑みて見る春の夜の月
皐月来ればひと年人と刈りにける菖蒲かをりて手にありと惑ふ
呼ぶべくもわれに名許す人の一人ありと思へどその名を知らぬ
唇つぐみ見ては別れし巷人なぞやひと夜の夢には入りぬる
誰が旨ぞわれを思はぬ路にやり思はぬ人の君を見せしは
手を執りて泣きぬわが世の運命もてわが名を君に負はすとしては
天地に人の一人をえらびては楽しといふ日寂しと泣きぬ
添ひてあれ髪やはらかき夜の人のとすれば遠く陰府にもあるごと
君を宿せ時には君を追ひやりてわれと寂しむ胸にもあるかな
深緑天にも似よと野をば染め星にも似よと据ゑし夏の人
山に摘みて人に贈ると白百合に紅さして見し夏の夜ありし
黎明や黄昏えては人の名を負はしゝ星の消えゆくを見る
星のさやぎ聞ゆとゆふべ立ち出でゝ人と逢ひぬる棗のもとや
たとふれば明くる皐月の遠空にほのかに見えむ白鴿か君
夜の風に細き灯影のゆらぐ時たゞ強かれと君に云ひしか
曙の鐘にまどへる夢の神の忘れて往にし君かとも見つ
たま〳〵に夢は見れども眼ざめては忘れてとのみ微笑めるひと
宵に見て朝忘るゝかりそめの夢にも似ばと君にかこちつ
ゆくりなく夢に見えたる面影の清きを恋ひて露岡越ゆる
白梅も瞳あげては宵闇の野を見るごとし君立ち待てば
折りとりて瓶に挿しぬる白桃の花咲く日ともなりにけらずや
静かなる胸やたがひに涙落ちぬ桃の林の青葉に立てば
云ひさして涙ぐむ子のわりなさに惑へる夜や雁ほそく啼く
白銀の糸に繋げる影と見つ星に背きて夜を立つ人
君が岡にまろくも立てるひと本椎その椎見ゆる有明月夜
人にしもよそへて愛でし白梅をわびてはひと夜さみしと思ひし
おほらかに君もと強ひし心なさわが往く路はうつゝなの旅
華やげる君が唱歌に君が節に興ぜぬわれを憎むとするか
社に入れば葉守見ずやと袖につゝむ世にも艶なるひとの君とて
あえかなる唇に草笛ふくませて野に聴く声のさみしき夕
その一夜君をなごめむ心しらへあやなや今宵君に泣かるゝ
君が息やこむれば笛の音と生れ春の夜覚ましたゆたひ遊ぶ
その人にうれひむ縁負へるべしたゞかりそめや上田のひと夜
天にして白き花咲く苑の中われ呼ぶまでを君が名秘めよ
人よいづこ麗しく咲く花見ては蔭に隠れて名をば呼ぶかな
尋ね来て対へば花はひるがへり涙に消えてさみしき頃や
われよ狂ふ市に遠人望みては君もや来ると心をどりて
君なくて何を栄なる身なりとや天にわれ見る星は照るとも
朝を消ゆる露も夕は立ちかへりもとなる花の萼に置くを
許されし縁の糸のまさきくも手には繋げど曳きぞわづらふ
怨みあるなひとつ縁の糸もちてたがひに曳きし人と思ふに
縁領る神のおん手にゆだねては又の世にして見んとこそねがへ
唇噤み言はぬに愁ひ汲まぬひと憎みもかねてわりなきかなや
人の一人われぞ涙はそゝげるを足らじとするか悲しき人よ
うたてわが激しかりける怨みをもわすれて泣くよ別れといふ日
別れとや一夜の夢や見せにけむはかな怨みも忘られかねて
別るゝ日君が涙のなど熱くわが路かくは寂しく見ゆる
生きて見じと云ひし怨みもふと忘れ人なつかしき艶なる宵や
戯れに別れてもゐる思ひしつ秋の十度をあひも見ぬ人
泣きつゝもわれと涙をうたがひし筑摩少女は眉若くして
同じ谷の梓に落つる露汲みてともに育ちし君にはあるも
消えてゆく雲のひとすぢ野の家のとありし宵の忘られがたき
藤衣
母のみ魂離るゝひゞき耳にしぬ厳かなるに目くるめきては
愛子われ袂かざしておん顔を隠しぞまつる運命の前に
誰れ定めてひと世と云ひしわれはしもまた会はむ世の母にありと思ふ
姉よ涙隠したまへよこの夜をばかぎりの母や惑ひたまはむ
生きてわれ聴かむ響かみ棺を深くをさめて土落す時
おん棺舁かむとてわれ走りしや山越え七里うつつなき旅
碑おく日重きに母のわびたまひ冷きにしも憎むとまどひぬ
榊葉のそよぎや母のみ息まじりみ声ありしと惑ひて泣く夜
往かす国こよなくよきに愛子をも忘れたまひし母かと頼めつ
永久や頼み斎ける白珠のくだけを見する悲しき教
鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか
野の雉子山の雉子も来ては鳴け御墓けうとく悲しきさまや
面影は深くも胸に刻みたりむなしき墓よ苔むさば蒸せ
ふる里の母や召すらむ思ひして夕の鐘の聴くに泣かるゝ
われや母のまな子なりしと思ふにぞ倦みし生命も甦り来る
残紅
三月の香天にかへりて海の風すゞしき朝を君遠く送る
照れる日や花はにほひて鳥啼くを遥けき路も行けかし君よ
この磯の海の響とかの磯の響と似ると君はいふらし
若き胸に吸ふべく風や清からむ海の彼方の大野の夏は
野の霧に帰さ惑ひし君と思ひまたの朝は帰ると思ひて
〇
野の霧に帰さ惑ひし君と思ひまたの朝は帰ると思ひて
牕に倚りてその名を呼べば星ひとつ揺ぐと見えつ寂しき夕
とこしへに稚かるべき君をしも思ふに老いつ春また暮るゝ
陰府の戸も越えては君をぬすみ来つ胸の奥にも斎きぬるかな
花散りし園に迷ひて香をもとめわぶるが如し君を思へば
かぎりなき時も所も思ふまゝに占めてはわれに対ひてある君
〇
わが胸に君はうつりつ君が胸にわれは映りつ路遠きかな
待つ人の君あるにこそ総の路曳かるゝごとき思ひにたどる
むらさきの小筑波ちかき椽の上むかしの君と蹲り見る
君とわれ対ひてともに言葉あらず纜解きぬ利根の秋の日
舟の中まろ寐姿の小さくむかひたゆたふ波に行くへ定めず
秋の夜静女が墓ある里に行くと花草小径ともし火とりぬ
鳴らし見よとわれに勧めぬ総の少女しめ緒ほつれし静女が小鼓
萩若葉ぬすむと兎忍びよるを月にすかして眺むる夜かな
〇
愛づるにぞ鳥もその音の思ひをば数ふるものを山にゐよ少女
夕栄に姿かゞやく山の子の髪にかざしぬ紫の花
親もすてぬえ言はぬ胸のうたがひのわれを曳きてと涙拭ふ人
遠くこそ別れは来つれ母が息君が夢路の息とや通はむ
会ひ見てはたゝへまほしく別れては泣かまほしさや才高き君
〇
現なの末期の唇に通ひけむ椰子の木立のうら葉吹く風
いとせめて覚めて泣きけむ夢の間のその故里に着きぬるを君
さりともの惑ひにゆふべ門を出で花ある方に君呼びて見る
〇
ありし日を思へばわれや別れ来て海越えがてに嘆く燕か
この心君と会ふべく君が住む南信濃よ雲白く照れ
いたみては息とも洩るゝ歌ぞそはやさしき人よ耳にはするな
〇
海越えて行かむ別れの磯にして妻なき君をさみしとは見ぬ
はつ袷露におもたき夜もあらば帰りも来よと人に別るゝ
〇
しら髪に夏の日うけて草刈りし叔父がみ魂にやすきを賜ふか
〇
顧みて寂しかりけむ前の日を驚く日あれ友よ女君よ
離しおきてふたゝび合す今日の日を神や笑まして見そなはすらし
〇
むらさきの花さく藻をば簪とも衣とも見ては隠れ入りし人
藻の花を分けても見ぬる水底に人の面影ありやと思ひて
〇
涙もて行く路つゞる鳥あらば或ひは姿君に似つべし
人とわれと繋ぐ涙の見えずあらば狂ひはつべき世にもあるべし
椽にちかく虫しげく鳴く夜にしてかなしき姉の涙を拭ふ
破れし瓶の破片を拾ふ身にも似て姉に添ふ夜の涙のしげき
〇
秋早き信濃の里の初袷野菊の中に君立つらむか
若き僧の寺を棄てたる物語君に書かばとわびて筆執る
君に見る天の花摘む歓喜と陰府の戸たゝく嘆きのさまと
板廂
緑をば御衣となしてこの小野を統べたまふ神に仕へたる家
葦ゆるがせ流るゝ水をうかゞへば野に立ちし親の面影見ゆる
野の鳥よ別れてつひに帰り来ぬわれを思ひて啼く日もあるか
鳥の啼く槻の林の板廂そひ寐の母にならひにし唄
筑摩野に古りたる家の戸を出でゝ旅行くわれを泣きける甥よ
故里に聴きにし虫のかすかにも雑りて鳴くよ虫売る家に
黄昏の鐘のひゞきのすゑ追ひて消ゆらむ方をふる里とこそ
雪ついばみ低くも歌ふ鳥とこそ雪深き野に生れぬる身の
野の鳥よ古りし廂にうたひては父笑ましぬる朝もあるべし
御嶽颪荒きがうちに亡き父のと息まじりてわれに聞ゆる
わが魂や青野がうちに埋れたる親の涙を拾ふとなげく
巡礼
麻ごろも黒くまとひて
背見せてたどる巡礼、
鉦ならし、鳴らしながらも
父いづこ、母はいづこと、
幼声いともあはれに
恋ひつゝも唄ふを聴けば、
寂寥や声ともなりて
秋の日を嘆くがごとく、
静かなる天も耳敧て
聴きつゝも曇るとぞする。
あゝ唄や、聴きつゝあれば
わが袖も涙にぬれて、
別れては遠きふる里
こゝにして映ると思ひ
袖振れば地に曳く影の
そゞろにも寂しく見えて、
われもまた孤独の身をば
嘆くなる彼にも似たる。
さなり、げに、われも巡礼。
その唄の寂しとは聴け、
怪しくも胸に沁みては
包みては言はぬ思に
通ひても聴ゆるものを。
その唄を唇にまねべば
わが思あやしく載りて、
寂しさにこもるゆかしさ
隈なくも浮べるものを。
鉦遠く、聴ゆるうちに
まじり来る唄のひゞきや。
黎明を路にくだくる
露の音とやはらぎ来れば、
われは今、草青やかに
靡きよる大野に立ちつ、
霜柱、むすぶさやぎと
その唄の沈みも行けば、
われはまた、黄なる岩山
唇嚙みて立つと惑ひつ、
巡礼や唄ひゆくなる
唄のあと追ひてはるかに
辿りゆく魂ともなりて
夢心地ながくたゝずむ。
緑蔭
緑蔭の際やかに
地に映る五月の日、
桑林、ふるき路
たどりては深く入り、
覚めて見る白日の夢
興じつゝ眺めしか、
ふと起る鳥の声、
こぼれちる実のひゞき、
わが夢は破れさり、
夢よりや生れたる
﨟たくも小さき女、
わが前にたゝずめる。
小さき女、君が手は、
むらさきの実を拾ひ
わが唇を染めにける
さながらの手ならずや。
小さき女、君が微笑は、
枝撓めて実をとりつ
与ふるにこぼしける
さながらの微笑ならずや。
対ひつゝ君見れば、
君やわれ旅に逢ひ、
黎明を夢かたり
西東、わかれては
たがひにも忘れさる
はかなさに似てはあれ、
築きたる夢くづし
寂しみて袖嚙む日、
立ち慣れし桑林、
もとの蔭おもひ出で、
古の君が身を
ゆくりなく見するとか。
桑の葉に風鳴りて
こぼれくる紫や、
小さき女、身を飜し
背を見すと驚けば、
風と共に消えさりて
呼ぶべくも影あらず、
おのづから湧く涙、
あゝわれは、今にして
初めても君に泣く。
波の香
小夜中に海にむかへば
いみじくも香ぞうつる、
ほのめきて、むかし、谷間の
蘭の花の露あり、
みだれては、桂の杜の
こぼれ散る木々の下露、
さながらに香をば伝へて
わが袖に浸まむとするかな。
見かへれば、昔恋しき
かなしみは海にもあるか、
潮沫のひとつ〳〵や
われとわが夢に籠りて
覚されて泣くにも似たる、
波の香の深きが中に。
小夜嵐
青やかに立たむ若葦
そのほそ葉風に鳴りてか、
さやかにも澄むらむ星の
その中にたてるさやぎか、
小夜中をひとり眼ざめて
寂しくもわびぬるわれに、
などさしも音づれきては
などさしも涙さそふや。
憧れつゝもとむるものに
えも逢はぬながきかなしみ、
もとめては憧れむものも
いつしかに忘れしなげき
その声のわれを覚まして
誘ひては遠く行くかな。
朝夕
あけぼの園にたゞずめば
花ゆるがして起る風、
来ては袂に、わが髪に
忍び入りてはそよげども、
捉ふとすればのがれ去り
行きては潜む草のかげ、
青葉のゆらぎとまるとき
ひそめく声もまぎれにし。
夕ぐれ杜に隠れては
雉子よぶと吹く雉子笛や、
ひとたび吹くに慕ひ来て
面影見すれ、重ねては
吹けど鳴らせど帰らぬに
笛かみて立つ闇の中。
小貝
うるはしき光と共に
さゝ波の戯るゝあした、
そのさまのゆかしき恋ひて
すゞろにも巌はなれつ、
まだ知らぬ浪路わたりて
興じつゝ来ると思へば、
いつしかに日影は消えて
浪くらく轟きわたる。
わが巌いづくにありや、
眺むれど見れども見えず、
母恋し、恋し母よと
なげきつゝ海なる小貝、
すべなくも照る日をあびて
真砂地の磯にかなしむ。
露と露
萩にしも宿るしら露、
むらさきの桔梗の露の
ねびたると思ひかはして
消えかへり恋ふとはすれど、
かれはしも宵におく身の、
これはしも朝にちる身の、
夜ひと夜のへだてかこちて
互ひにぞ風にをのゝく。
げに同じ園にやどりて
おなじくも露と結べど、
この露もえしも移らず、
かの露もえしも移らず、
もろともに散りてくだけて
さみしくも初めて逢ふか。
眠
小枕のつめたき愛でゝ、
頬あてゝは静かによれば、
わが息は唇にすゞしく
双の眼に華はみだれて、
手や胸や、肌やはらかき
人の来て抱くがごとく、
今、眠われを引きては
その国に行くとするかな。
昼はしも心、心を
欺きてわれを隠しぬ、
わが願ふねがひのねがひ
いざ来てはわれに見えよや、
笑みつゝも寂しき一日
代ふるべく泣かむ刹那に。
夢のゆくへ
例ならぬ心ときめき、
われとその理由もわかぬに、
静かにも胸かきいだき、
その奥をすかしも見れば、
あゝわれは夜の枕に、
酔ひつゝも見たるよき夢、
朝明のあわたゞしきに
隈なくも紛らしゝかな。
よびかへし見んと思ひつ、
失ひし羊をさがす
心づくし牧者に似れど
その姿またはかへらず、
われとわが生の一部の
わがものにあらぬを泣きぬ。
懶き音
夏の日を、青垣つゞく
都はづれさまよひ行けば、
ゆくりなく笛の調の
起りきてわれをとらへぬ、
かゝるころ山路をゆきて
鶯や聴きけんごとく、
たゝずみてわれはその音の
心をば汲まんとはしぬ。
あゝ笛よ、鳴らば高くも、
その管の裂くらんまでも、
然らずば寧ろ消ゆかに、
音をつゝめ管の中にも、
かゝる音は、聴くにも憂しと、
歩みつゝわれはかこちぬ。
夏の蝶
青一色、稲田のうへに
ひるがへる白きものあり。
夏の日を翅にうけて
陽炎と化すらんけはひ、
描きたる絵ともまがひて
一つところ去らぬを見れば、
こや春の、花さく朝に、
生れにしやさし蝶なる。
見て過ぎつ、二時ありて
前のところ帰りも来れば、
なほ居るよ、同じき蝶の
えも去らず飄りつゝ。
日に燃ゆる紅き翅や、
われはふと怖れいだきぬ。
枇杷
逍遥の帰さを園に
鳥逐ひて摘みし枇杷の果、
おもひ出でゝ手に取らすれば、
かばかりも歓ぶものか、
枇杷とわれ眺めかはして
をどらする瞳の色や、
うなゐ髪、下総の児の
たやすくは唇にも触れず。
同じ木の同じ枇杷の果、
その汁の甘きをわけて、
君が微笑にさそはれつゝも
かへり見る緑の大野、
雲しろき筑波の山も
かゞやきて笑めるに似たる。
板屋
旅なれば涙もおつれ、
疵おひてにぐる子兎
ひとりしてわれも急ぎて
稲倉の嶺こゆれば、
古里やとほくつゞける
社かげの板屋の廂、
衰へて生命忌むなる
老人の姿と見ゆる。
野に出でゝ糧をもとむと
照れる日と戦ふ家族、
つかれては帰らむ家の
たそがれは寂しく見ゆか、
たまたまに通ふ旅びと
急ぎつゝ見かへりてゆく。
旅人
ふる里に帰り来りて
産土の社にまゐれば
黄にゆらぐ銀杏の大木
めぐりては村の童の
渡鳥実をあさるとも
さわぎつゝ拾ふ落葉や、
忘れたる幼なかりし日
夢としもかゞやき見ゆる。
幼くもわれもなりつや、
そゞろにも群にまじれば、
見も知らぬ旅人の来て
まどはすと言ふらむ瞳、
怖しきものを脱ると
われ棄てゝ子らは走れる。
うたがひ
かゝる悲しきうたがひも
あるべきものか、或夕
耳につめたき声ありて、
汝が母とよび、たのめるは
まことの汝れが母ならず、
父と思ふも父ならず、
何れも汝れをあざむける
由縁もあらぬをこ人ぞ。
わがこの言葉いなむべく
証明もあらば示せとて、
声は背後にひそまりつ、
えしも答へず、涙たれ
口惜しむわれをあざ笑ひ、
疾く〳〵とこそ促せれ。
酔
灘に名ありと聴く酒や、
夕、灯影にむかひては
ひとりの興の尽きやらず、
さらに杯みたしては
飲むともすれば、あゝ胸は
既にえならぬ香にも
飽きてもあるか、さばかりに
愛しゝ酒も厭ふなる。
杯の数かさねては
身をさながらの瓶にとも
願ひしに似ず、わが酔の
かぎりあるをば思ひては、
酒ながめつゝ、寂しくも
醒めゆくわれを嘆くかな。
枳殻
行くべき春を行かしめて
山時鳥鳴く日をば
わが日とするか、枳殻の
花はつ〳〵に咲き出でつ、
覚めて静けき緑野や
遠く望みて立つ見れば、
尼そぎすがた堂に入り
背見するにも似たるかな。
黎明の露、母としつ
黄昏の露待ちうけて
消えても行かむ様ながら、
風さゝやげば飜り
日のうかゞへばかゞやきて
笑みてもあるや枳殻の花。
根分
日かげ親しき秋の日や
坪に、枯れたる朝顔の
蔓を曳きては、菊の苗
移し植ゑよと親はいひ、
わが手執りてはやさしくも
根分のすべを教ふなる。
あゝ白菊のにほふとも
打背きては、たゞ胸に
咲き散る花に興じつゝ
若きをわぶる身ならずや、
親よあはれめ、子は君が
静けき胸に遠かるを。
露
雲ただならず更けてゆく
その夜来て啼くほととぎす、
かなしき声にかつ添へて
こぼしゝものゝ涙かや。
御空はるけき月の宮、
常処女なる姫御子の
さすが寂しき袂より
散りしやまたは野路のつゆ。
朝と夕との行き合ひに
こぼれて落つる露の玉、
そのいろ清き野辺にして
うたひし唄も老いしかな。
えにし
まほに見ずともしばしだに
忘れて君のあるべしや、
思ひ出でゝは秘やかに
泣かむのみなる身ならむや。
ひともと雌蕋まもりては
花に雄蕋のおほくあれ、
われならずして君ならで
あひ知るものもなかりし世。
命運のよそに持つ縁、
ありとしわれは思へるに
さなりと云へよ重ねても
いま真夜中の星の上。
薫風
小夜中くらき沖のうへ
潮の寄するを聴くがごと
遠野ほのめく緑より
あらはれて来し夏の嵐。
川瀬におこるしら波は
ひるがへりたる陣の旗、
疾風かなたに浮城や
雲うるはしき空に入る。
いみじきわざを眼にも見る
夏逍遥の小野の昼、
せまき思ひをかへり見れば
つきなき涙こぼるゝよ。
覚めぬ眠
覚めよ稚児、汝が手伸べては
顔蔽ふ白布去れよ。
よろこびて聴きにし小鳥、
人あらぬ室とやおもふ
椽に来て覗ひ啼くを。
忍びいる秋の日影の
汝が髪を細く照して
眉にしも寄らむとするを。
覚めいでよ、微笑ひてはこの
静かなる室かゞやかせ、
泣けよ、さは砕けもしけむ
親ごゝろ甦らむに。
うつむきて白布去れば
あゝ寒き汝れが面や、
死の相は淡く掠めて
いと遠き陰府にも走り、
試に額にさはれば
つめたくもわが手ふるへて、
燭とりて照しても見る
夜の間の氷の海や。
抱きあげ、愛しゝ日をば
憶ひつゝ汝れ見かへせば、
繭やぶり、舞ひてはるかに
消えてゆく蝶とも見えて、
怪訝や胸にあまりて
気遠くも厳かなるよ。
あゝ稚児よ、生るとしては
汝が甞めし激しき悩
徒ならずこゝに一つの
生命とかゞやき出でつ、
うまし味や母が垂乳に
飽きたりて、瞳あぐれば
情ある笑顔を越えて
円らかに照れる大空、
地に満つる花を眺めて
汝がこゝろ躍らざりしや。
今やまた激しき悩
死の味を甞めはこそすれ、
顧みつ、得たる力に
将来を思ひはかれば、
この路やさらにかしこき
光明に続くを思へ。
かぎりなき、大き御旨の
み情を思ひたのめば、
永遠にあらん願や、
永遠にすゝまむ願、
与へては徒に奪ふと
など汝れの疑ふべしや。
さりや汝が唇見れば
閉したる堂の扉の
開くべき時を待ちては
開くとも言ふらむごとく
閉したる両の眼や
黙禱の深夜のすがた、
大御姿、胸にうつるを
待ちつゝもあるにも似たる。
切なるは親の心や、
その手より大き御手に
一向に委ねまつらむ
この日をば思ひ、つゝしみ、
美しく稚児よあれかし
大御手に賄ともなれと、
霧の下、露にあらはれ
咲きてある秋の野の花、
桔梗に紫えらみ
女郎花、黄をばえりつゝ、
折りためて、汝れが棺を
こよなくも装ひけるかな。
貝の殻
海浜に来て見れば
白き貝、あかき貝
重なりて、眼も遠く
波の縁つゞりたる。
わが脚や踏むはその
歓楽のふるき跡、
わが脚や立つはその
滅亡の墓の上。
波は来ぬ、海の胸
ゆるがして走せ来れば、
あかき殻、白き殻
相触れてさゝと鳴る
波の穂を抱きては
まろぶかな、鳴りつゝも。
甦る夢かさは
歓楽の追憶か。
海浜の貝のから
見つゝわれ佇めば、
その生のひとつだに、
その夢のひとつだに、
かひなくも亡びしと
わが胸はえおもはず。
春夜
月あれどいづくにか、
雲しろく遠く連なる、
花の樹の繁れども
おぼろげに影と重なる。
あゝ春よ、春の夜よ。
そよぎよる風の味
清き唇走すらむ息か、
おぼつかな物の色
佳き女のうしろ姿か。
あゝ春よ、春の夜よ。
声立てゝ人呼べば
いざよひて遠き谺や。
手ひろげて抱きよれば
あたゝかし、花も樹立も。
あゝ春よ、春の夜よ。
春日
君恋ふとかこつ時、
たま〳〵に飛び来ては
鶯や高鳴きつ
佳き声の空としぬ、
鶯は飛び去りて
寂寞のかへる時、
われはまた音に立てゝ
つぶやきぬ、君恋ふと。
君恋ふとかこつ時、
たま〳〵に風の来つ
花ゆすり夢織るや
麗しく眼の前に、
風やみて花沈み
夢に継ぐ現の憂、
われはまた音に立てゝ
つぶやきぬ、君恋ふと。
亡き母
なごみ心地やえも知らず
涙は頬を伝ひぬる、
われは心につぶやきつ、
わが母われを待ちますか。
胸を抱けば、なつかしき
情けは波と湛ふなる、
その波の間に現はれて
島とも浮ぶ母の顔。
報酬なくして賜ひたる
一人の母の愛により、
われ天地をうるはしき
栄の台と覚えにき。
母、われ待つと思ふにぞ
墓の彼方や爛漫と
花咲き照れる路あるを
夢とはなくて見ぬるかな。
いけにへ
羽黒山まつれる神の
みつぎにと、大野の人の
曳きて来て御前去らせず
繋ぎたる牝牡の赤牛、
いとかたき綱にわびつゝ
かしこみて蹲りたる。
草刈りて祝部の人
うづたかく飼ひてはやれど
眼をあげて牝を見る牡牛、
尾をふりて牡を見る牝牛、
いぢらしや嘆きあひつゝ
その草も食まむともせず。
大神の御前にありて
いけにへの誉得むより、
生れてはそこに育てる
大野辺の草やこひしき、
もの食まぬ牛にしあれば
やがてこそ骨も見ゆなれ。
杉檜ものさび立ちて
回廊の朱をかくしつ、
神鈴のとほく聞えて
かしこさの身にしむあたり、
行きて見よ、牝牡の赤牛
寒げにも石と臥すなる。
呼びなむ母も
呼びなむ母もあらぬ汝れ、
稚きよりまつはりし
わが膝いまは離れても
一人いづこに行かむとや、
母の名によりわれ呼べど
呼べど帰らぬ心とや。
げにふる里もあらぬ汝れ、
われある方をふる里と
慕ひてあともつけぬるを、
汝がふる里の名によりて
呼べとわがある門辺には
または帰らぬ心とや。
来し方おもへ、われなくば
えあらぬ身ぞと泣きし汝れ、
われも嘆きはあらせじと
悲しきよすがあはれむを、
誰れかなにをかさゝやきて
かゝる別れは見せぬるや。
あゝわれおきて一人して
行きなむ路も持てりとや、
籠に馴れぬる雛鳥の
ひそかに籠をぬけしごと、
姿つゝみて行きにける
汝れを思へば胸いたまるゝ。
宵闇
われひき入るゝ物の音よ、
鳴けば聞ゆる、聞けばわれ
いとゞ暗きに遥けきに
導かるゝと思ふかな。
雨とならむの宿の闇、
雲たゞならぬ市の隈
何ぞ、簀子のあたり来て
暗き思ひを伝ふるは。
あゝあゝ染めし幾巻の
いたづらなりし歌の反古、
せめて寄せむの君はあれ
陰府にもつ名もしらぬわれ。
たゞ夕波の行きのはて、
小夜吹く風の吹きのすゑ、
見えし面影、かなしくも
今宵汝が音に曇らむよ。
やむとしもなく鳴く声よ、
しきらばいかに夜もすがら、
さらでも痛きわが胸の
つひに今宵を砕けむか。
朝なぎ
そと開けてうかゞふ牕に
はて知らず重なる闇や、
をのゝきて閉すとすれば
疾しや風白く飛び来て、
手にもてる細き灯影も
奪ひては飛びても去れる。
迫り来るは主か闇夜の、
大海のそれのたけびか。
つたなくも宿りしものや
磯の家旅寐のひと夜、
現なきわれかのまどひ
わが魂の終りと見ゆる。
夜は明けぬ、雲紅らみて
円らかにかゞやく海や、
唄のせて漕ぎゆく舟の
唄のふし真似まほしくも、
立ち出でゝさまよふ磯辺
わが胸はほのかに遠き。
いづこにか物の音たちて
たゆたひて袂に忍ぶ、
手招けば沖つ白波
うねなして寄りても来るを、
かへる波乗りては、さらば
識らぬ国訪ひても見ばや。
早春
春早き日や、野に来れば
春の影こそ曳かれたれ、
黄にこぼれては菜の花の
夢を綴らむうなだれや、
麦の青葉は片なびき
過ぎゆく風を追ふとする、
ふと眺めてはわが心
躍るともすれ、見返りて
「野よ、わが思ふ夢に似ず。」
たどりて遠く、楢の丘
高きが上に登り来ぬ、
静けさ見する葉の色や、
心をさそふ淡き香や、
かすかに遠き鳥の声
鳴き去る方に眺むれば、
緑濃き空、ひとひらの
白き雲こそ流れゆけ、
われはわが夢求めては
胸にすかして認め得ず、
「野よ、汝は夢を奪ひぬる。」
おもかげ
春の昼静かにて
明るしやわが室は、
何事のおもひなく
ひとりして坐しをれば、
わが心ゆゑ知らず
平安に満たされつ、
消え去るや、軒にして
歌ひたる鳥のこゑ
まぎるゝや、牕にして
映りたる花のかげ、
われはげにたゞ一人
世にありて生くと見え、
夢あらぬ眠とも
たのしさは身を包む。
ふと見れば、眼の前の
白壁に人の影、
波の間にうつりては
沈むなる鳥かげか、
夕空にかゝりたる
ゆくりなき虹の輪か、
忽然と清き女
おもかげをあらはして、
美しき瞳あげ
わが姿ながめたる。
われもまた驚かず
おほらかに見かへして、
黒髪の艶なるも、
くちびるのにほへるも、
魂の色見する
瞳をもながめつゝ、
唇洩るゝ息の香も
相まじる親しみや、
刻々と移りゆく
時の間を覚えしか、
面影はつと消えて
われをこそ残したれ。
あゝ女よ、君は誰そ、
何処より来りしか、
見かへれど、かゝる女
生きてわれいまだ見ず、
今にして初めても
相識ると覚ゆるに、
何なれば、わが胸は
いと遠き昔より
親しみてあるがごと、
女もまた同じくも
親めるわれのごと、
さばかりもおほらかに
瞳をば合しゝや。
女やわれ、相共に
あるべくも契りては、
遠き世に別れては
忘れてもある仲を、
思ひいで訪ひも来し
心ゆくこの昼か。
そよ、胸に親しみつ
憧るゝ前生や、
君をしも中に据ゑ
尋ぬれば、ほのかにも
夢のごと映り来る
わが胸の奥にして。
従妹よ
従妹よ、君が生れしは
夢ゆたかなる京の中、
愛し斎ける親の手に
童女とこそは育ちしか、
親失ひてたちまちに
寄るべもならぬ孤児の
憂きめ多きをあはれみて
迎ふる叔母の手に曳かれ、
馬の背にして越ゆる山、
雲低く飛ぶ筑摩野の
稲田の中の一つ家の
娘となれる秋の日や。
京にも増して賑はしと
そゝのかされし夢をしも
名知らぬ鳥の耳ちかく
来て啼くこゑに覚されつ、
稲見て知らず、案山子見て
ゆゝしむ君が瞳には
都の彩のとゞまりて
悲しき色に沈めども、
なくてえならぬ母ぞとも
知るかや、終にわが母の
顔あふぎつゝ面はゆく
母とこそ呼べ京言葉。
一人の母にすがりては
泣くこそ子には幸を、
第二の母の袖曳きて
愛だれぶりの戯れや
笑める姿を眺めても
あはれと思ふこの朝、
更に離れて、いと遠く
行くか木曽路の雪の渓、
君にも伯母の、第三の
母となるべく、同車して
伴はむとて頻りにも
門にして呼ぶ、あゝ君よ。
(明治三十八年九月刊)
編集上の注記
以下は編集作業の記録および注記です。底本に記載されているものではありません。
作業履歴
- 作業開始日:2021年4月26日
- 入力:2021/4/26 – 2021/5/11(月岡烏情)
- 入力者による初校:2021/5/11 – 2021/6/3(月岡烏情)
- 他者による二校:(未実施)
注記
- 「緑陰」の詩の1行目は、「緑」が旧字となっていたため新字に直した。
- 「夏の蝶」の詩の最終行は、「われは子と」あるが他版を参考に「われはふと」と直した。
- 国立国会図書館デジタルコレクション 872886 では35コマ目として46、47ページが重複して入り込んでいる。
参考
次の書籍も参考としました。
- 『空穂歌集』(中興館・明治45年4月)国立国会図書館デジタルコレクション 872886