歌集『別離』 – 若山牧水

この記事では、現代短歌PD文庫の一つとして若山牧水の歌集『別離』の全文をHTMLで提供するものです。

底本情報

  • 底本:国立国会図書館デジタルコレクション1883090
  • タイトル:牧水全集 第一巻 集録 別離 上巻、下巻
  • 著者:若山牧水(1928年没 > 1979年公有化)
  • 出版者:改造社
  • 出版年月日:1929年(昭和4年)11月8日

初出は次の通りです。

  • タイトル:別離 上巻、下巻
  • 出版者:東雲堂書店
  • 出版年月日:1910年(明治43年)4月10日

別離

自序

 廿歳頃より詠んだ歌の中から一千首を抜き、一巻に輯めて『別離』と名づけ、今度出版することにした。昨日までの自己に潔く別れ去らうとするこころに外ならぬ。

 先に著した『独り歌へる』の序文に私は、私の歌の一首一首は私の命のあゆみの一歩一歩であると書いておいた。また、一歩あゆんでは小さな墓を一つ築いて来てゐる様なものであるとも書いておいた。それらの歌が背後につづいて居ることは現在の私にとつて、可懐しくもまた少なからぬ苦痛であり負債である。如何かしてそれらと絶縁したいといふ念願からそれを一まとめにして留めておかうとするのである。然うして全然過去から脱却して、自由な、解放された身になつて今まで知らなかつた新たな自己に親しんで行き度いとおもふ。

 また、昨年あたりで私の或る一期の生活は殆んど名残なく終りを告げて居る。そして丁度昨年は人生の半ばといふ廿五歳であつた。それやこれや、この春この『別離』を出版しておくのは甚だ適当なことであると私は歓んで居る。

 本書の装幀一切は石井柏亭氏を煩はした。写真は一昨年の初夏に撮つたものである。この一巻に収められた歌の時期の中間に位するものなので挿入しておいた。

 歌の掲載の順序は歌の出来た時の順序に従うた。

 左様なら、過ぎ行くものよ。これを期として我等はもう永久に逢ふまい。

  明治四十三年四月六日

   著者

上巻 自明治三十七年四月 至同四十一年三月

吾木香われもかうすすきかるかや秋くさのさびしききはみ君におくらむ

いま瞑ぢむ寂しきひとみ明らかに君は何をかうつしたりけむ(途中大阪にかれは逝きぬ)

短かりし君がいのちのなかに見ゆきはまり知らぬ清きさびしさ

 旅の歌より、三首

南国の港のほこり遊君のなるを見よと帆はさんざめく

草ふかき富士の裾野をゆく汽車のその食堂の朝の葡萄酒

晩夏おそなつの光しづめる東京を先づ停車場に見たる寂しさ

 〇

こは笑止せうし八重山ざくら幾人いくにんの女のなかに酔ひ泣く男

酔ひはてては世に憎きもの一も無しほとほとわれもまたありやなし

 女ありき、われと共に安房の渚に渡りぬ。われその傍らにありて夜も昼も断えず歌ふ。明治四十年早春。

恋ふる子等かなしき旅に出づる日の船をかこみて海鳥の啼く

山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく

岡を越え真白き春の海辺かいへんのみちをはしれりふたつの人車くるま

砂浜の丘をくだりて木の間ゆくひとのうしろを見て涙しぬ

このごろの寂しきひとにひむとて葡萄の酒をもとめ来にけり

かなしげに星か降るらむ恋ふる子等こよひはじめて添寝しにける

ものおほく言はずあちゆきこちらゆきふたりはかなし貝をひろへる

渚ちかく白鳥しらとり群れて啼ける日の君がかほより寂しきはなし

浪の寄る真黒き巌にひとり居て春のゆふべの暮れゆくを見る

海岸うみぎしの松青き村はうらがなし君にすすめむ葡萄酒の無し

わがうたふかなしき歌やきこえけむゆふべ渚に君もで来ぬ

くちづけの終りしあとのよこ顔にうちむかふ昼の寂しかりけり

いかなれば恋のはじめに斯くばかり寂しきことをおもひたまふぞ

海女あまの群からすのごときなかにゐて貝を買ふなりわが恋人は

渚なる木の間ゆきゆき摘みためし君とわが手の四五の菜の花(以上)

 〇

黒髪に毒あるかをりしとしとにそそぎて侍れ花ちるゆふべ

悲し悲し火をも啖ふと恋ひくるひ斯くやすらかに抱かれむこと

床に馴れはねおとろへし白鳥のかなしむごとくけふも添寝す

この手紙赤き樹ってをはるにさへこころときめくかなしきゆふべ

添臥に慣れしふたりのことも無うかなしむ家に桜咲くなり

汪洋と濁れる河のひたながれ流るるを見て眼をひらき得ず

われ死なばねがはくはあとに一点いつてんのかげもとどめで日にいたりてむ

むしろわれけものをねがふ思ふまま這ひ得るちからをねがふ

かなしみは死にゆきただち神にゆきただひとすぢに久遠くをんに走る

下巻 自明治四十一年四月 至同四十三年一月

いづくよりいづくへ行くや大空の白雲のごと逝きし君はも(三首独歩氏を悼む)

仰ぎみる御そら庭の樹あめつちのひややかなりや君はいまさず

君ゆけばむらがりたちて静けさの尽くるを知らず君追ふとおもふ

 六七月の頃武蔵国多摩川の畔なる百草山にて、二首

松林風の断ゆればわがこころふるへておもふ黒髪の香を

午後晴れぬ煙草のあまさしとしとに胸ににじむ日ほととぎす啼く

 〇

秋風吹くつかれて独りたそがれの露台ろだいにのぼり空見てあれば(某新聞社楼上)

いつ知らず重ねて胸に置きたりしもろのわが手を見れば涙落つ

このごろの迷ひ乱れにありわびて寂しやわれに帰らむとする

しづやかに大天地おほあめつちに傾きて命かなしき秋は来にけり

まれまれに言ひし怨言かごとのはしばしのあはれなりしを思ひ出づる日

物をおもふ電車待つとて十月のまちの柳のかげに立ちつつ

公園の木草きぐさかすかにに染みぬ馴れしベンチに今日もいこへる

松虫鳴きそよ風わたるたそがれの小野の木の間を過ぎなやむかな

日は黄なり斑々はんばんとして十月の風みだれたる木の間に人に

栗の樹のこずゑに栗のなるごとき寂しき恋を我等げぬる

たはむれのやうに握りし友の手の離しがたかり友のを見る

髪ながく垂れて額のあをを掩ふ無言むごんよ君にくちづけてゐむ

野には来ぬこころすこしもなぐさまず木の間を行きつ草に坐りつ

ふるさとのお秀が墓に草枯れむ海にむかへるの岡の

波白く断えず起れる新秋しんしうのとほき渚に行かむとぞおもふ

けふ別れまた逢ふこともあるまじきをんなの髪をしみじみと見る

こころ永く待つといふなりこころ永く待つといふなりかなしきをんな

冷やかに部屋にながるる秋の夜の風のなかなり我等はもく

こころ斯くすさみはてぬるわが顔のその脣をおもふに耐へす

秋の白昼ひる風呂にひたりて疲れたる身はおもふなりをんなのことを

破れたるたたみのうへに一脚いつきやくの寝椅子を置きつ秋の夜を

うまき肉たうべて腹の満ちぬれば壁にもたれてゐねぶりをする

酔ふもまたなににかはせむすべからく酒を棄てむとおもひ立ちにき

二階より更けて階子はしごをくだるとき深くも秋の夜を感じぬる

おもはるるなさけに馴れて驕りたるひとのこころを遠くながむる

手をとりて心いささかしづまりぬもの言へばいや寂しさの増す

秋のあさうなじに薄く白粉おしろひの残れるを見つつ別れかへりぬ

わがちさき帽のうへより溢れ来る秋のひかりに血は安からず

健やかに身はこころよく饑ゑてあり野菊のなかに日を浴びて臥す

四階よりのぞめば街の古濠ふるぼりにゆふべ濁りて潮のさし来る

靴屋あり靴をつくろふ鍛冶屋ありくろがねを打つ秋の日の街

くちもとのいふやうもなく愛らしきこの少年にくちづけをする

わかくさの山の麓は落葉せむいまか静かに鹿の歩まむ

秋風吹き日かげさやかに流れたる窓にふたりは旅をおもへり

或時はなみだぐみつつありし日の寂しき恋にかへらむとする

はてしなくひろき林に行かしめよしばし落葉のを断たしめよ

彼のとほき林にめるけだものはかなしめる日の無きかあらじか

われ死なば林のつちを掘りかへしひとに知らゆな其処に埋めよ

林には一てう啼かず木のかげにたふれて秋に身をひたし居り

涙落つまぬかれがたき運命のもとにしづかに眼を瞑ぢむとし

棄て去りしわが女をばさまざまに人等ついばむさまの眼に見ゆ

かへりよ桜紅葉の散るころぞわがたましひよ夙く帰り

しかれども一度ひとたび恋に沈み来しこのかなしさをいかにはふらむ

さまざまの女の群に入りそめぬ恋に追はれし漂泊人へうはくびと

ことごとく落葉しはてし大木たいぼくにこよひ初めて風のきこゆる

晴れわたる空より樹より散りきたるああ落葉らくえふのさまのたのしさ

妻つれてうまれし国の上野かみつけに友はかへりぬ秋風吹く日

木々のかげまだらに落ちてわが肩に秋の日重し林に死なむ

の国の清教徒ぴゆうりたんよりなほきよく林に入りて棲まむともおもふ

ありつる日死をおもふことしげかりし身は茫然と落葉らくえふを見る

山陰に吸はれしごとく四五の村巣くへる秋の国に来にけり(以下伴二と旅に出でて)

名も知らぬ河のほとりにめぐり来ぬけむり流るる秋のゆふべ

白々とゆふべの河の光るありたひらの国の秋の木の間に

雲うすく空に流れて凪ぎたる日林の奥に落葉えせず

落葉樹らくえふじゆまばらに立てる林間りんかん地平ちへいにひくし遠山とほやまの見ゆ

身を起しまた忍びかに歩みいでぬ落葉ばやしの奥の木の間を

手ふるればはららはららと落葉らくえふす林のおくの一もと稚木わかき

林間の落葉を踏みつ樹に倚りつ涙かきたれなにを歌ふぞ

ながながと地上ちじやうに身をばよこたへぬ夕陽ゆふひの前の落葉林らくえふりん

かきあつめ白昼まひる落葉に火をやりぬ林の奥へ白きけむり

ひややかに落葉林らくえふりんをつらぬきて鉄路走れり限りを知らず

うす甘き煙草の毒に酔ひはてぬ黄なる林の奥の一人は(以上)

軒下の濠のひびきと硝子戸のゆふ風のと椅子に痛める

夕暮のそよ風のなかにいたみ出づ倦みしひたひに浮けるあをさは

新しき鵞ペンに代へしゆふぐれの机のうへに満てるかなしみ

ゆふぐれは蒼みて来りまた去りぬ窓辺の椅子にわれのうもるる

ゆふ日さし窓の硝子は赤々と風に鳴るなり長椅子に

数知れぬ女の肌におぼれたるこのわかき友は酒を好まず

打ち連れて活動写真に行きし女のあとに灯をともすなり

果実くだものをあまたたうべし夕まぐれいひの白きを見るはいた

家々にかこまれはてしわが部屋の暗きにこもりストーヴを焚く

悲しげに赤き火を見せゆふ闇の椅子に人あり煙草は匂ふ

黒髪の匂ふよりかなしつかれたる身にゆふぐれのいどみ寄るさま

海に沿ひ山のかげなるみだらなる温泉町おんせんまちに冬は来りぬ

涙たたへ若かる友はかなしみぬ見よわが恋は斯くもまつたし

容れがたし一度ひとたびわれを離れたるなれがこころはまた容れがたし

白々と鷗まひ出づる山かげの冷たき海をおもひ出でけり

離れたるあいのかへるを待つごときこの寂しさののろふべきかな

この河の流れて海に入らむさまあしあひだにおもひ悲しむ

ともしびをともさむとする横顔の友の疲れは闇に浮き出づ

命なりそのくちびるを愛せよと消息せうそこに書き涙落しぬ

衰へしひとの額をかきいだき接吻きすせむとすればあはれ眼を瞑づ

かき抱けば胸に沈みてよよと泣くそのかみの日の少女のごとく

半島はんたうの国のはしなる山かげのちさき港に帆をおろしけり(以下旅に出でて)

枝垂しだれ咲けり暗緑色あんりよくしよくの浪まろぶ海の岸なる老樹おいきの椿

青き白き濤のみだれにうちまじり磯に一羽の小鳥啼くあり

ひろびろと光れる磯に独りゐて貝ひらふ手に眺め入りぬる

越えありく海にうかべる半島の冬のうす黄の岡より岡へ

旅人は海の岸なる山かげのちひさき町をいまぎるなり

海岸うみぎしのちひさき町の生活なりはひの旅人の眼にうつるかなしさ

男あり渚に船をつくろへりせなにせまりて海のかがやく

ゆふ日赤き漁師町れふしまち行きみだれたる言葉のなかに入るをよろこぶ

風凪ぎぬ夕陽せきやう赤き湾内の片すみにゐて帆をおろす船

わが船は岬に沿へり海青しこの伊豆の国に雪のつもれる

夕陽せきやうの赤くしたたる光線にうかび出でたり岬の街は

春白昼ここの港に寄りもせず岬を過ぎて行く船のあり(以上)

編集上の注記

以下は編集作業の記録および注記です。底本に記載されているものではありません。

作業履歴

  • 作業開始日:2021年4月26日
  • 入力:2021/4/26 – 2021/5/3(月岡烏情)
  • 入力者による初校:(未実施)
  • 他者による二校:(未実施)

注記

  • 246ページ、「帽」の漢字は異体字。
  • 257ページ、「衰」の漢字は異体字。

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