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歌集『乳房喪失』中城ふみ子

この記事では、現代短歌PD文庫の一つとして中城ふみ子の歌集『乳房喪失』の全文をHTMLで提供するものです。なお、本書の序文については、これを記した川端康成の著作権保護期間は2042年まで続いているので、この期間が終わるまでここに公開はしません。

底本情報

以下は本テキストの底本となった書籍の情報です。

  • 底本:歌集 乳房喪失<短歌新聞社文庫>
  • タイトル:乳房喪失
  • 著者:中城ふみ子(1954年没 > 2005年公有化)
  • 出版社:短歌新聞社
  • 出版年月日:1992年(平成4年)

初出は次の通りです。

  • タイトル:乳房喪失
  • 出版社:東京作品社
  • 出版年月日:1954年(昭和29年)

乳房喪失

序文

川端康成

(川端康成の著作権保護期間は満了していないのでここに公開はしません。)

装飾

野火とほく

す如く煙るが如き猫柳の岸辺に我執もはかなくて立つ

一斉に柔毛の光る束の間を虚しきものにりて坐りき

花の泡咲きつぎ夫が陥しめし元将軍の行方知れずも

倉庫より倉庫に運ぶ品物に憑かれし夫が春の日を居ず

アドルムの箱買ひ貯めて日々眠る夫の荒惨に近より難し

うしろ背を風に吹かれてゆく夫が瞼にありやがて遠のく

追ひつめられし獣の目と夫の目としばし記憶の中に重なる

出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ

慰安なき雪崩の音に寝返りて置き去られたる我は眠らむ

背かれてなほ夜はさびし夫を隔つ二つの海が交々に鳴る

離婚の印押したるのちに自信なく立てり我は悪妻なりしか

赤の他人となりし夫よ肌になほ掌型は温く残りたりとも

二三本野菊が枯れてゐるばかり別れし夫と夢に会ふ原

倖せを疑はざりし妻の日よ蒟蒻ふるふを湯のなかに煮て

夫の住む郊外ゆきの黄のバスに或る朝は乗せやるわれの憎悪を

衿のサイズ十五吋の咽喉仏ある夜は近き夫の記憶よ

別れたる夫と出会ひし砂利の道さりげなくしてわれよ落着け

近づきてすれ違ふまを道の砂利乱反射しつつ長かりしかな

新しき妻とならびて彼の肩やや老けたるを人ごみに見つ

落魄の夫の噂もはやきこえ蟻の穴の如きふるさと

野火とほく燃ゆる夕べは懇ろな他人の如く夫をかなしむ

白き茎

母を軸に子の駆けめぐる原の昼木の芽は近き林より匂ふ

縋りくるどの手も未だ小さくて母は切なし土筆の野道

悲しみの結実みのりの如き子を抱きてその重たさは限りもあらぬ

陽にあそぶわが子と花の球根と同じほどなる悲しみ誘ふ

陽の中の変哲もなき球根が花さくふしぎにこころ揺れをり

春のめだか雛の足あと山椒の実それらのものの一つかわが子

童らの環を散らしゆく夕かぜに父なき吾子の甲高きこゑ

剪毛されし羊らわれの淋しさの深みに一匹づつ降りてくる

無縁なるものの優しさ持ち合ひて草食む牛とわれとの日昏れ

光りつつ吹く風のなか抜け立ての蛾よりおぼつかなくわが歩む

昼の埃そのまま靄となる街に不鮮明なる月のぼりゐて

夜ふけて野犬の溜りとなる庭の気配か俄かに床は冷えきつ

かつて無瑕のこころを恋ふと月の斑の青うくシーツに孤り覚めをり

水の中に根なく漂ふ一本の白き茎なるわれよと思ふ

花の香は菌の如くにみち植ゑぬ花を買へざるわれの夜のため

月光にまぶた濡らして眠る夜はピユアな少女にかへるかわれも

比重

板の間に足指重ねて坐るとき不服従なるわれの姿よ

出戻りのわれが動くにそこはかと立つ埃さへ目に糺さるる

口つぐむ人らの前を抜けて来つ禁句の如きわが存在か

今のいま何の祈りぞ暗天よりたばしる霰を掌にうけてゐて

父なき子の重みに膝がしびれゐるこの不幸せめてたれも侵すな

絵本に示す駱駝の瘤を子が問へば母はかなしむその瘤のこと

スクーターの後ろに乗りし子が下さるるときに荷物の表情をせり

生きむとするものに冷たき風のなかマーケツトの灯は一つづつ消え

父似の子を冬より庇ふわれの掌の皹あれば暗い葉脈に似る

獏の夢

まぎれなく自分のものと言ひうるは何もなきなり侘び助の花

信ずるもの実在のみと言ひきれずわが奥底に獏は夢食ふ

浅紅の芽はわがにも匂ふなればひそかに震ひ木より離るる

陽の中にひらく蕾はかく紅しわれは価値なきものを守りて

触れがたく白く咲くとも花なればわれの不浄を卑めはせず

何事も金銭に片つく酷薄の巷にて見れば花暗々と

吊されしけものの脂肪が灯に耀らふ店出でてなほわれの危ふく

捌かるる鞭なきわれのけだものはしらじらとして月光にとぶ

跳躍の姿勢にけものは待ちゐたり屠られむとし我は近づく

出し抜かるるは常に人間のわれにしてけものは青き山巓を駆く

忍びやかにけもののよぎる束の間の移り気よ春の雨温くふる

滅びよと駆り立つるものある時は妖婆のひきし車にも乗る

けものさへ冷たき目にてつき放すわが生きざまか淋しくてまた

不遜なるわが生き方に赤痣の浮くほど頬うつ人もあれかし

気の強き女だなぞと言へり柔き果肉を庇ふ殻を知らねば

灼きつくす口づけさへも目をあけてうけたる我をかなしみ給へ

来々軒より胡椒の匂ひ流れくる春の夜更をいたはり歩む

埃立つ夜のフロアに脱ぎすててわがモノロオグとも白き舞踏靴

母の理性さめて思へば愛の言葉もはや造花の点綴にすぎぬ

或る終章

熱き掌のとりことなりし日も杳く二人の距離に雪が降りゐる

度し難き女と君を嘆かしむ捉へがたなき風の性格

孤の心もろ手を胸に組みて居り金属板のごときシーツに

溝の水溢るる厚みにおびえゐるひとりの心夜にも紛れず

望楼に人間のともす灯が一つ赤かり空よつくづく寂し

ためらはずきみに与へし林檎の実冬に凍りて酸ゆることなし

いくたびか試されてのちも不変なる愛は意志といふより外なく

蛍火の只中にゐて見つめゐる怖れよ君は死ぬかもしれぬ

掌のうへの柿の実一つの豊饒も君の命に見えぬかなしさ

ビヂネスの如く生きゐぬうつし身の二人を結ぶ何もなければ

見えぬものに鬼火もやして蠟とくる淋しき音ともきみの咳きく

聖使徒に似かよふ面を一つ残し夕光の黄よいたはりふかき

いくたりの胸にちゐし大森卓息ひきてたれの所有にもあらず

たれのものにもあらざる君が黒き喪のけふよりなほも奪ひ合ふべし

口々に死を悼むとも生き残るわれを如何にといふ声のなし

とりすがり哭くべき骸もち給ふ妻てふ位置がただに羨しき

衆視のなかはばかりもなく嗚咽して君の妻が不幸を見せびらかせり

悲しみに無防禦なるとき肘ふれし名もなき草の棘さへ刺せり

従順な妻を打擲して晴らすといふ病人の生理をきけば苦しむ

空に描き消してはつひに狂ほしきどのデツサンもきみの死顔

亡きひとはこの世の掟の外ならむ心許してわが甘えよる

足らざりし愛を詫ぶれば物分りよくいいさいいさと手を振るきみか

秋草に風吹きゆけばさびしさも一すぢ白し屍室へのみち

帰り来て虚しくむかふ夜の壁は異質のものの如くに黝し

雪虫の舞ふなか卵型のわが顔小さくなりひとを喪ふ

あかしやの街

洗はれて陽に乾きゆくブラシが光のたばと見ゆる朝庭

生きてゐる楽しさに触れ朝九時の窓に光れる牛乳のびん

一足ごと羽色を変へて鳩歩む朝あかしやは花房となり

あかしやの花ふみくれば薬局に昨夜のままなる灯が残りゐて

昼近き空の青さに張られゆく日覆けよわれの欲望あかるし

少女らの私語もマイクをふと洩れて放送塔は朝風のなか

宣伝の飽くなき用語をマイクよりとほす少女の硬質のこゑ

雨あとの朝の光は鈍く曳き耳立てし犬辻々に拠る

街の朝未だ汚れず空缶の火をおこしゐるあかしやの風

帳簿くるわれの姿勢もウインドウに象嵌されて春深むらむ

客の下駄揃へて厚く送り出す誠実にやや広告的に

品物を取り出す硝子ケースより見るにこの客も扁平な顔

世辞うまく客に買はせてうしろ向き心のどこか皺ふかくする

懸引ののちに受けとり皺のばす紙幣に多少のをかしみはあり

安らかな明日ある如くあかしやの夏くる樹下に風は治まる

夕さればやさしくベルの鳴らさるる電話ボツクスはあかしやの蔭

父の匂ひ忘れし子らが窓にかけて青き林檎に立つる歯の音

子の脚のサロメチイルを匂はする風よかなしと満ちたりてをり

春の草

胸のここにはふれずあなたも帰りゆく自転車の輪はきらきらとして

夕ぐれのやうなる朝のこころを掠めてとべり白きボールは

秋の日の寂しかりにし木の葉などいまも貯ふ水ぎはのうろ

落ち水のひびく野に来て明るめばやうやくわれの影を失ふ

美しく漂ひよりし蝶ひとつわれは視野の中に虐ぐ

忘られて陽にも冷たき石原の鳥の卵はかへることなし

陽の下に撓やかにわれを誘ふ野をゆきゆけどなべて踏まれたる草

幻のなかに住みゐし幾日かひそかに殖えをり春の蜘蛛の子

無垢のこころ或日は幼く青ぞらに一すぢ届く梯子も見たり

一本の羽根を帽子に飾りゆくささやかなれど我の復活祭

ポニーテールの髪のわが娘と草はらに遊ぶ再婚せぬと決めては

草はらの明るき草に寝ころべり最初より夫など無かりしごとく

人を赦すぬくき心は止めおかむわれに再び来む冬のため

ふるさとは我を容るるふさはしと思へど咲きて紅き春花

夜の埃

身に残る何あらむやと歎くとき盲腸の位置かすかに痛し

毎夜とざす窓の掛け金さびつけば徒労のつかれ俄かに重く

夜の埃売場の台に立つしばしわが目かすかに渇きゐるらむ

われがかく渇くも雨は石壁のせばまり合へる幅だけに降る

美しく莓を洗ひし水も夜の溝をひそひそまはりゐるべし

ヘアピンを傷あとのごと散らばせてわれは薄暮のタイルに冷えゐつ

ぬめらかに匂ふ秘密も匿すなし浴む湯は獅子の口より溢れ

シユミーズを盗られてかへる街風呂の夕べひつそりと月いでて居り

嗜虐の昂ぶりひそかにわが作るいかの刺身は白く冷たし

まなぶたにやはくふくれる春の靄われはひと一人瞞し来にけり

コールドに拭きし素顔に流すゆゑひとへの涙に平ぎはなし

勝気なるひとり暮しのわが夜に産むは無精卵の如き歌いくつ

灯の席や歌に執するいくたりの尾骶骨ありありとわれは見てゐる

流氷の浮く海が見ゆ女ひとり生きてつひに微細なるとき

花粉点々

ひしめきて位置を争ふ東京にわが足立つる空地はなきか

埃ふくガードの下の靴みがき目あげて田舎ものわれを見透す

美しき抑揚の声が街々に田舎ものわれを拒めるらしき

プラタナス黄ばみ吹かるる街にしてギヴアンドテイクの恋ばかりみる

地下鉄の朝に魚臭ふなつかしさわれは故郷に省みられず

塩鮭をガスの炎に焼きてゐつ職なき東京けふも曇れり

虹かかる空はいづくか夕立を抜け来し電車より吐き出されつつ

行きくれて倚る飾窓にふるさとの木彫の熊と会ひにけるかも

盛り場の顔に地名を探しあるく北海道の人に会ひたし

靄さむく拡がり来たる何時の日か数寄屋橋をりて渡らむ

空とほくある倖せは何ならむ広告球も綱ひきて居り

原色のかなしみをきりきり突きつけるこの画より立ちてひもじきときに

かの子の形見の太郎は太り肉にして画廊の青き植物のかげ

母子抒情読みたる頃か太郎すむモンマルトルの地図を暗んじき

止みがたく太郎が描きし画の半ば解けずエレベーターに蒸れつつくだる

汚れたる花粉の如く運ばるるわれか終電車を濡らしゆく雨

わが足のかたちに脱ぎし靴下よ小田急の遠音しみじみと冷ゆ

自家用車持てる友も妻なれば手袋をはく姿が瘠せて

自家用車とめて日本橋に海苔を買ふ友に従きつつ淋しくてならぬ

秋雨にただ眠るのみ採用されし印度カリーの店にもゆかず

スピーカーに掃き寄せらるる乗客にまじりてオーバー着ぬ私もゐる

青き事務服

特売の不細工なる足袋買ひゆきて女はいまだ悲しみ多し

無自覚に長く生ききし証とも足袋のかたちを憎むことあり

衣料の値あがるといそいそ階下りてくる母を朝は倦めり

女丈夫とひそかに恐るる母の足袋わが洗ふ掌のなかに小さし

淋しきこと思ひ続けて煮し菜を女店員らは入れ替り食ぶ

一人あたり十円ほどの予算にてわれが得意とすキヤベツのいため煮

自転車のかげ長く西陽に曳きてゆくこの人もあまり倖せならず

翳のなき倖せなどはつまらなし魚の腸に似し風船がとぶ

オレンジの林の見ゆる幻に固き舗道をあくがれ歩む

ゆらゆらと陽に漂へる人参の尾の如き子の下げ髪かなし

養はるゝゆゑに遊びと見られゐむ歎きうたへば曇天のいろ

北風に青き事務服吹かれゆく母には母のかなしみありて

思ひつめ坐りし草の上に来て白かりし夏の蝶も死にたり

帰り来てなほ執しつつ壁ぎはに黒き雫を垂れゐる蝙蝠

朝の虹

朝の虹くぐりて塵埃馬車ゆけり健やかなる明日を疑はぬ目に

もの言へば声みな透る秋日ざしわれの怒りもはかなくなりぬ

秋とほる日ざしの路地に伸ぶるところむく犬は咽喉の毛を搔きゐたり

ひそひそと秋あたらしき悲しみこよ例へばチヤツプリンの悲哀の如く

草の穂を跳びゆくは現代少女にてほつそりと白き脚など持たず

街々の人間侮蔑のあかしみつ来たれば砂地に水浸みし跡

秋風に拡げし双手の虚しくて或ひは縛られたき我かも知れず

もはや子を産むこともなきわが肢は秋かぜの中邪慳に歩ます

おり立ちて白きタイルを潔めつつ写せば冷たし秋のわが顔

値をひけと押しつけて言ふ表情が又ぺつたりと胸に貼りつく

いたはられて済む嘆きかも菊のそば離れて静かに鼻をかみたり

憂鬱といふならねども三十のわれは男の見栄に目ざとし

耳垂れて残飯を食ぶるこの犬も人間の側にあれば醜し

冬の火事

凍みし荷の縄を解きつつ話しをり昨夜の映画の悲恋のシーン

薄暗き水飲場に来て靴下を上げゐし少女も擦れてゆくなり

クレゾールに女店員らが浸しゐる足は霜焼けて暗きくれなゐ

微笑ほゝゑめば白き八重歯の女店員のある雰囲気が妬まれてゐぬ

パチンコに行きし少年が朝あけて煙草くさき菓子を呉れたり

少年に女店員らが寄する思慕冬の花粉の如く温とし

作業衣の繕はるるま少年が未来に購ふ車のゆめ語りゐき

静かなる痛みを誘ふ目のまへに客のボタンの糸弛びゐて

カウンターに金銭を数ふるわが膝の冷たきに来てうたた眠る子

母はかく拙く生きて算盤の合間に繕ふ針目揃はず

われに最も近き貌せる末の子を夫がもて余しつつ育てゐるとぞ

若くして電撃療法うけし父の髪まばらなる頭よ菊とならびて

老首相が好むと反語に言ひたりし銭形平次わが父も読む

動脈硬化おそるる父が歩む間も胡桃の殻を手に鳴らしつつ

杖つきて舟橋さんの逃れたる火焔ののちに雪は降りつむ

火元の女を呪詛する声も直きに止み明日は小さきバラックが建たむ

ちりぢりに人去りし師走の凍天に焼棒杭は祈るがに立ち

愛の記憶

春の雪ふる街辻に青年は別れむとして何か吃るも

長き脚もて余すがに坐るよと余裕あるときわれは年うへ

無内容なる時間をともに頒ちゐてわが若ものは美しかりき

ナイーブな髪のさやりが子に似たる人にかれゆく哀しみ乍ら

陽にすきて流らふ雲は春近し噂の我は「やすやす堕つ」と

脱衣せる少女のごとき白き葱水に沈めて我はさびしゑ

春芽ふく樹林の枝々くぐりゆきわれは愛する言ひ訳をせず

歯がゆしと打ち据うるともわが心又背かるゝ日のために愛す

硝子屑の上に来て青き夕あかりたれか酷薄のことばきかせよ

変貌し止まぬかれのうしろよりきゆけば夜はいづこにもある

燃えむとするかれの素直を阻むもの彼の内なるサルトル・カミユ氏

舗装路を横ぎるときも庇ひくれぬ冷たきひとよその人を愛する

花もちて鉄扉のかげに待つときの少女めきたるわれを自嘲す

ヒヤシンスの花びら風に吹かせゐるかれの横顔なにもたくめぬ

饒舌にささやきし夜の風も落ちかれの若さが厄介になる

うす青きかぜにひそかに抱かるとも既に緊りし細腰もたず

セパードは長く吠えをり病室の灯を消してあはき虚しさは湧く

せば何かさびしきたとへばきみの黒子の位置を忘れしことも

夜ふけて涙ぐみつつ子に還すもろき手の爪のエナメルはがす

子を抱きて涙ぐむとも何物かが母を常凡に生かせてくれぬ

幼らに気づかれまじき目の隈よすでに聖母の時代は過ぎて

梟も蝌蚪も花も愛情もともに棲ませてわれの女よ

音絶えし夜更けにわれの祈りあり今日も心が鎮りませぬ

雨孕むへり赤き雲しばらくは磁気のやうなる我と引合ふ

春の雷とどとどろ鳴る夜の駅にスーツケース下げてわれは孤りなり

濡れてくるオイルコートの輪郭のたれも親しき駅のあかりに

背のびして唇づけ返す春の夜のこころはあはれみづみづとして

踵たかくつくられて春の靴ならぶ蛍光の下やさしさよぎる

ブレンソーダの泡のごとき唾液もつひとのかたへに昼限りなし

外界のはかなき壁としてふたりが持つ小鳥の籠とラテン音楽

何時の日も柔和な面よ会ひてゐて屢々ふしぎな混迷がおそふ

結ばるる日のなき夢かネクタイを吹く風にきみが眉を顰めて

嘘少し言ひて楽に生き給へきみは酒も煙草も飲まず

まじめなるきみは恋びとあはあはと煙草を吹かす会話ももたず

かがまりて君の靴紐結びやる卑近なかたちよ倖せといふは

月のひかりに捧ぐるごとくわが顔を仰向かすすでに噂は恐れぬ

音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる

敗北のこころはかくも甘やかにこぼれ松葉の道をきゆく

年々に滅びて且つは鮮しき花の原型はわがうちにあり

小さき部品あつめてラヂオ組むひとのそばに無口なる時を娯しむ

白きマスクの上のひとみがおだやかに君のものなる我を写せり

天使園

注視され褐色の子の降りゆきし駅すぎてふかき夜の靄はくる

縮れ毛の黒き天使は降天す焼けただれたるしづかなる土

混血児スラニーが口尖らせて投げをりし石も沈みて眩しき水面

風透る福寿草の野に嬉々として蝶々夫人の落し子たちよ

棒きれにおたまじやくしを弄ぶ児の暗色の髪に吹く風

肉いろの花びらに似し舌吐きて縮れ毛の子ははや狡猾に

睡たげな日ざしに子らは掬ひゐぬ「色の制限」なき噴水の虹

木と草の醸す空気はさはやかに淘汰されゆくべき黒き皮膚

こころなき注視の中に耳長き木馬は混血児を縋らせてをり

ウインドーに写る少女の希臘鼻美しくして未だ春寒

オリーブの若木の燃ゆる炎して恋よかれらの上にも来たれ

梅雨季

わが妬み黒きもやしの如くにも植えをりさむく昨日より梅雨

ほのかなる紅さにわれを唆りゐし花にも慣れぬ梅雨が続けば

梅雨重く被さる夜はふたり子のうへを鬼子母のこころに嘆く

雨の舗道を遠のきつひにふりむかず足にややゆるきその靴の音

静かなる夜は恐れをりもやもやと荳科植物の影ふゆる見ゆ

わが智慧の及ばぬ若さといへるもの紅きレインコートの少女近づく

石炭と水と空気につくられしナイロンコート着て会へば淡々し

わが胸の幼なさ透かせナイロンは濡れをり蟬かへる間近き雨に

ナイロンコートに細き雨滴湧かせゐるいまの孤りを庇ひくるるな

白き雨過ぎゆくほどの妬ましさ死にたるきみは何時までも若し

梅雨あがる淡き光に散らむとし花はおびただしき言葉を持てり

梅雨晴れの朝は白き蛙など生るる楽しき未来も信ぜむ

蝸牛つの出せ青葉の雨あとに人間のほかなべて美し

あかしやの花ふりこぼす朝風に眩しく未遂の悪も宥さむ

限りなき光の風や君たちはわれを乗せくるるてのひら持たぬ

大楡の新しき葉を風揉めりわれは憎まれて熾烈に生たし

異邦(一)

ゼスチユア大きく彼らは踏みてゆく春も灰色に低き家並

錯覚に誘はれてゆく丈高き彼らがローマの神々に似る

われわれの生活と幾らの関りがある紅きひげ金色の髯

薬研型の帽子をはすはにかの兵ら明るしわれも卑屈になるな

ふりむきて瞬く瞳青けれどさびしさかよふ知己のまなざし

ピンクの皮膚温さうな兵何処のジヨンか行きすぎて如何ほども憎めず

異邦(二)

飛行雲窓より近きビルに来てわれの小さき用事を済ます

米兵の耳けものめく曇天の街に貧血して立どまる

屯せる駐留兵のまへ足鳴らし通りすぎ何の腹癒せとする

砂糖菓子のやうな衛兵を往帰りわが貶しむは知られざるらむ

ジエツト機の切り裂きゆきし冬雲のあひだよりあはきひかりは差せり

たべものを臭はせてゐし米兵のうしろも湿る海の空気に

米船の発ちて冷えゆく海面に腹あかき魚の泣くこゑ満つる

乳母車

山道に子の折りくるる蒲の穂よすでにし母は観音ならず

どんぐりの落つる音にも惹かれ易き母は遅れて林を出でつ

失ひしこころよく杳く秋風に光りて空の乳母車あり

川鮭の紅き腹子をほぐしつつひそかなりき母の羞恥は

釘の頭打つやうに子を矯めてゐつ愚かな母が何追ふまぼろし

瞋りつつ見据うればあはれ甘酸ゆき杏の核のごとき子の顔

母の手に捉へがたき子よ稚魚掬ふみづみづしさを頻りに思ふ

つきつめて願ひしことも遥かなり子は紅き鸚鵡を自在に放つ

舞台に立つドーランの顔大人びて俄かに母を頼りなくする

メーキアツプ粧ひやりし子の顔これが人中に出て生きゆく顔か

偏愛せしわれのうへの子つけつけと母の女性をないがしろにす

コスモスの揺れ合ふあひに母の恋見しより少年は粗暴となりき

スケートの刃もて軟かき氷質を傷つけ止まぬこの子も孤り

ひび荒れて働く指が愚かしき我の内部を償ふたびたび

父の家にかくれて遊びに行きし子を待ちて出づれど黒き冬の川

とんぼの翅惨くむしれる少年よ汝の父には愛されざりし

物陰にたどたど繃帯巻ける子は母に明かせぬ傷口もちて

北の季節

入墨なきメノコの唇が芹匂ふさむき空気のなかに動けり

綴りたる曲玉くびに原野の陽追ひ求めゆきし族はかへらず

豁達の生もどる無しゆく春の微塵拭はれざるアイヌの刀よ

血漿を含む北風の野に立ちてわが掌ひらけば石のやじりあり

熊彫りつつ見上ぐる瞳狡猾に滅ぶるもの或ひは美しからず

珍魚おこぜ北海岸に漂着す実るもの無き秋のニユースに

川浅く透きつつ鮭の遡りゐむ夜を覚めてふしぎなる充足があり

わが心かなしきまでに放ちやる今日狩猟解禁の空

爆破音ひびきくる山のスロオプに立てば獣の去りゆく臭ひす

スカートを吹き上ぐる土工夫の揶揄もやがてダムの底となるべき峡か

実を残し枯れゆく草に坐りゐて秘めたる何かの確証をせむ

愛し抜かざりし青春よ山に来て鳥や獣のこゑが悼みくるる

落葉樹林の縞なす光に提げゆけば華奢なるバツクも獣の皮ぞ

枯葉色の靄匍ひ上る山の灯に会ふたび話少なくなりて

安らげぬままに降り来し山昏れて紅き蕈の憐光りゐむ

饑餓の夜を冬眠出来ぬ熊の目が光るとわれは小さく眠る

獲物の魚落しつつ穴に帰りたる愚図なる熊も童話の如し

暗契

閉鎖せしパチンコホールの階上に犬つれて若き鮮人が住む

音低く鮮人住むを壁越しに見守ればわれも共謀者なり

鮮人の高き顴骨が戸を入りつ出でつ帰らぬ犬をながく呼ぶ

唐黍畑荒せしわれら童にて切なさもありし朝鮮部落

密殺の血も吸ひたらむあかざの葉部落立退きし跡に茂りて

寄宿舎の壁にひたひを押しあてて洩らせし暗き鮮語を知らず

鮮人の友と同室を拒みたる美少女も空襲に焼け死にしとぞ

稲妻の走る畳にむき合へばちかぢかとして異民族の貌

日本を呪ひし鄭さんの声もつゴルフリンクの短かき草に

朝鮮服あはあは風に膨らめる幻も鉄線の内らに消ゆる

桃源境は何処にあるか死臭しむ地図を広げて虚しきときに

北方画展

北方の画家の絵筆はとつとつと重し真紅の馬など描かず

波際をわが駆りゆきし白馬かここにも鬣も四肢も切断されて

きれぎれの記憶をつなぎ回復する馬に忘れず翼を附さう

腕ながき黄衣の少女は画となりて意味なき感動を吾より盗む

ひまわりのしどろに伸びし狂熱を額縁の中に見終へて離る

画廊のなか求めつつゆけり蜂の羽音匿されてゐる林はなきか

暗き明日来るべく冬の陽はかげり画布にひつそりと横むく裸婦よ

立体派の焼けただれたる鉄骨が兇器に似ゆくまでを立ちたり

ひづみたる壺ひとつ画かるみる者にさまざまの可能盛らるべくして

さびしくて画廊を出づる画のなかの魚・壺・山羊らみな従へて

硝煙のこもる夜の靄吸ふ馬よ喉頭炎を患ふなかれ

冬の海

灯台もかもめも我より遠のきて心痛まぬ夕ぐれは来る

黒きシヨール畳みて砂浜にわれは坐る海よその話の続ききかせよ

鰭生ふる痛み不安なわがまへに海は灰色の水槽となる

よろこびの失はれたる海ふかく足閉ぢて章魚の類は凍らむ

主張なきわれは折々かなしみて沈む海と河との間

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか

まれに差す陽に温度なくコンクリート洗ふしぶきは端より氷る

帰り来て手に嗅ぐ魚の生臭さ酷似するもの持ちて怖るる

痛みやすくなりしこころか自らの頑きうろこを剥がしたるのち

深層

葬ひ花

何時の日のわれも僥倖など持たず病院に来て湿りし靴ぬぐ

手術室に消毒薬のにほひ強くわが上の悲惨はや紛れなし

施術されつつ麻酔が誘ひゆく過去に倖せなりしわが裸身見ゆ

冷やかにメスが葬りゆく乳房とほく愛執のこゑが嘲へり

メスのもとひらかれてゆく過去がありわが胎児らは闇に蹴り合ふ

もゆる限りはひとに与へし乳房なれ癌の組成を何時よりと知らず

唇を捺されて乳房熱かりき癌は嘲ふがにひそかに成さる

担はれて手術室出づるその時よりみづ〳〵尖る乳首を妬む

枯れ花の花環を編みて胸にかけむ乳房還らざるわれのために

白き海月にまじりて我の乳房浮く岸を探さむ又も眠りて

手を温く舐めくるる犬と陽だまりに乳房ありし日の夢は忘れむ

拒むものなき空なれど我は飛べず小鳥らの残せし糞清潔に

病院の外にながき黄昏くるたれの乳房も装飾されて

凹みたる胸に秋終る陽をうけつ「此処に爬虫類の棲みし空洞あり」

愚かしき乳房など持たず眠りをり雪は薄荷の匂ひを立てて

夜ふかくスチーム通ひくる微かなる響よ病みて夫なきしあはせ

白血球乏しくし病む薄明にたが顔かにじみ憐みて消ゆ

黒き裸木の枝に紐など見え乍ら溢れしわれは居らざる或日

われに似しひとりの女不倫にて乳削ぎの刑に遭はざりしや古代に

救ひなき裸木と雪の景果てし地点よりわれは歩みゆくべし

失ひしわれの乳房に似し丘あり冬は枯れたる花が飾らむ

氷紋

癌新薬完成とほき教室にモルモツトひそと眠る夜さむ

レントゲン放射に胸の皮膚を焼き黒きを何の烙印とする

冷えしるき放射線科の廊くだるポケツトに狂へる時計とわれの掌

われの過去に触れあるカルテは事務卓のあたたかき上にかすかに乾反り

氷紋の美しき日は過去として失ひたかりし記憶も惜しく

別れ来てひとり病む夜も闘ひは避けがたきかふかくベツド軋みて

夢魔の夜にわれを追ひにし獣の牙の如くに氷柱は険し

無抵抗に眠るわれの夜もすがら雪は猛禽の形して襲ふ

あはきあはき雪幾日もふり続き自己告発のときを失ふ

雪ふりて未明近き静けさにいまだ生れざるわたくしも見ゆ

扁平に縫はれしわれの乳房あと亀裂乾びゆく年月を思ふ

平つたき縫目となりし乳房あとかくせるわれが揺れゆく電車

土建屋に就職をせるかれのこと乳房なき胸の何処で想はむ

生きてゐてさへくれたらと彼は言ふ切られ与三のごとき傷痕を知らず

魚とも鳥とも乳房なき吾を写して容赦せざる鏡か

古椅子の凹みに埃立ちまよふ胃癌患者喚ばれゆきしのち

治療まつ癌患者の無口なる群よ日光の季節はとほく

冬続くかぎりは掃かねばならぬ雪掃く老掃除夫の頬骨たかし

半面に痣ある少女悪怯れずよぎりて冬の空気は緊る

冷たく白き卵の殻に穴うがち吸へばかの日のみそかごとめく

光りたる唾ひきしキスをいつしんに待ちゐる今朝のわれは幼し

夕茜終らむとして折々に雪野が反射する痛みのやうなもの

乳牛の豊かなる腹照らし来し夕映ならむわれも染まらむ

灰色の雪のなかより訴ふるは夜を慰やされぬ灰娘サンドリアンのこゑ

白きうさぎ無数に光りつつ跳ぶ夜もわれに初々しき眠りかへらず

不眠の夜また来むとして美しき麻薬は誘ふ鍵ある棚に

病棟の寝鎮るころしくしくと疼けばあはれ癌も身のもの

鬱憤を抑へかぬるごとまた一つ出でたる癌を胸にいたはる

足裏に汗ためて病むわれの夜に鉄架は熱く灼けてゐるらし

スリツパの濡れたる音を引く老婆憎めば老婆とも繋がれてゐる

僧院の夜の感じになべての廊しづもるはわれを悶えさすため

犯すごと雪崩のひびくあかつきの眠りを鉄のベツトが支ふ

赤い幻暈

切なげに壁のぼりゐし蝿も絶え雪の反射の明るき治療室

単調に果なく白い雪の街よごれた色はみな生きてゐて

鉄棒に絡みて遊ぶわが脚のしなやかなりし少女期とほし

やはらかく乳房痛ませ花の季の近づくならむと卑下してわれは

蝌蚪の尾蟬の抜け殻金の樹脂それらの上に吹くかぜ恋し

学生が金銭に換へゆきし血は黒く懶惰なるわが血とたちまち交る

暴進し来る電車をい寝て待つごとき気遠さ輸血を終へる

給血しくれし学生も吾の子も赤き幻暈を抜けて生き残れ

日毎に血塗られてなほ優しき手わが看護婦も弾つくる少女も

肉うすき軟骨の耳冷ゆる日よいづこにわれの血縁あらむ

年々にすがれゆきつつ風浪の記憶一つだにめざる耳よ

冬は聡きわが聴覚が捉へ来て飢ゑたる鳥獣の世界も近く

シンホニー聴きつつ眠ればわが上にも華麗なる冬つかのまあらむ

さいはひの如く聴きゐし楽止めば又音痴の不確さなり

花火消えし暗き空あり体臭の甦りくる祝日は何時

ひたひ髪

顎癌の女が水にこぼしゆきし歯磨の粉のその薄きいろ

ひと死にて空きしベツトに移り来つ翳作りゐし電球を消す

何パーセントか生き残るべし恢復のあてなきは怪しき神をも拝み

癌効薬ときけば親しきヒシの実が乾きし影こぼす新聞紙のうへ

ヒシの実よ煎じられつつ秋ふかき山に鳴りゐし風をかなしめ

凍廊をおぶはれゆきつつ鼻癌患者が鼻より抜けてものをいふこゑ

夕陽さす階のぼりゆく診察衣見送りてわれの病患暗し

きさらぎの陽を玻璃越しに浴むひとに近づきてわれも細帯一つ

吹雪去りし野に立つ一樹光りつつ昨日見慣れしわれの木ならず

朝々むかひ髪くしけづる冬山に鷹住むといつか信じてゐたり

額髪を撫でつつ童形探しゐる母の手よわれはまどろむふりに

ベットより並べて見つつ感動す太りたる母美しき叔母

若き父放蕩止みしその頃より勁くなりたる母かと思ふ

疲れ知らぬ牝鷄ははの支配下に居れば甘えて逃亡も計り

豊かなる乳を今も保つ母の涙もろき盲点を子は利用する

母がしばし女性を超ゆる眩しさを弱小の子はさびしみ見守る

微笑する母のすがたがやうやくに定着しくる夜を眠れり

横たはる冬尾根日ましに巍々として和解の願ひ人にとどかず

病めば病む秩序がありて別れたる人がとほくドア閉ざす音

訪ひ来しひとのカフスボタンに触れて見つ我の何かが過剰なるとき

雪の渦巻きつつすすむ道に出て無形の愛のなにを恃まむ

裸木らが何の未来か支へゐる真昼間ゆきて耳たぶ寒し

さむき道を何時まで従きてくる犬かわれは頒けてやる倖せもたぬ

頼りなく母をよぶ声伝へくる長距離電話は夜のかぜのなか

背の翼やがて失はむ子のために為すべき母は病みてとほくに

忘却

春かぜにもつれ毛の小さき渦うごき癌病棟に女患が多し

微かなる陽のいろ含む斑雪に愛着もちて永きいちにち

松葉杖の子が越えゆきし街なかの雪解の水も凍らむとして

砕氷をとほく棄てにゆく馬車とならびて青の信号を待つ

氷菓すくふ匙ひらひらと口に運びしばしのわれを甘やかしたり

自が息に曇りし匙を弄びゐぬ愛憎のことなべてはとほく

コーヒーを飲みゐるあひだひつそりと小指のなす表白をたれも気つかぬ

忘却のとき至りつつ早春の街に青き果実が売られ

萌ゆる日を約されて草木の凍る野か完き滅亡いづこにもなく

わが内の脆き部分を揺り出でて鰭ながく泳ぐあかき金魚は

見られつつ生きる金魚よ真正面より広大さるる哀しみもあれ

うつうつと地震に揺れゐし朝あけて身内に何のなまめきか残る

ダム工事現場に働くかれの便り間遠くなりて春は来むかふ

刀のごと沢庵さげてもどりくる附添婦は朝のひかりに浮きて

愛されしこともはるけく朝かぜに枝剪られゐる春の街路樹

よりかかる我が居らねばひさびさに腕かるくきみが街歩きゐむ

熱き牛乳を自らの息に吹きさます病めば朝よりかなしみありて

砂利くづすシヤベルの音が救ひなき幻聴となり熱のぼる日よ

あきらめのつきたる午後にひとが来て病衣を吊す釘うちくれぬ

銃口

初々しく尖る木の芽に武装せる林はわれを近よせぬなり

愛撫の記憶すでに止めぬわが髪は伸びきりて春浅き風に従ふ

光る鋏立てて抗せり春の夜の切なきものに縛められつ

妬みふかきわれにも会へりひとたばの白きもやしを媒介として

寡婦の婦長がみづからのため歌ひゐる春の夜ふけの子守唄低し

明け方のわが枕辺に体温計置きゆきしは白き春の手と思ふ

とほどほに赤児の泣くこゑはこび来る午過ぎの風をここにやさしむ

生きものを愛さざりし幼女期をもてば孤独なり春のくろ土

窓枠に顔のせてゐる退屈さどこかに仔羊が産れぬものか

ひと冬にすがすが瘠せて聖めく犬が微風のなか歩みゆく

あたたかき草生よりのろく立ち上る巣箱の如き病室が見え

塩からき去年の鰊食すゆふべわれは家族より切り離されぬ

子が忘れゆきしピストル夜ふかきテーブルの上に母を狙へり

銃口を擬されたるとき母は消え未練なひとりの女が立ちゐる

ゆつくりと膝を折りて倒れたる遊びの如き終末も見え

スチームの冷えしあけ方腕のなかに見知らぬわれがこと切れてをり

夕せまる広き校庭に子がひとりしやがめる夢よりさめて解きあぐむ

春泥

社会意識もてと責めて記者きみが呉れゆきし三Bの太き鉛筆

風呂敷をかむせし灯り明るさの範囲内にてもの書く春寒

薄ら寒き独身のともが尋ね来ぬ猫の抜毛をズボンにつけて

視線づらしもの言ふ人を追ひつめて触れし柔媚なるものにとまどふ

風の夜の籠編む指先すばやくて取り残されたる灯火とわれと

春泥の街に硝子戸は光りつつきみの留守なる仕事場もあり

自画像を抱へて猫背に帰りゆくきみの独身なほ続くべく

純潔なボタンに春服の背を飾りわれに相似の少女は歩め

山々がまどかに空に浮くまひる我の凍死の計画も延び

公園の黒き樹に子らが鈴なりに乗りておうおうと吠えゐる夕べ

無実なる野鳩を射ちし銃口をこの空のどこに探り当てよう

ひざまづく今の苦痛よキリストの腰覆ふは僅かな白き粗布のみ

葉ざくらの記憶かなしむうつ伏せのわれの背中はまだ無瑕なり

春の夜の食器透明に響き合ひ病まざる人らの日は繰られゐむ

死に近きわれに不変の愛誓ふ鎮魂歌ははやくもひびけり

あとがき

 生きてゐる中に自分の像を建てる様な用心ぶかさは愚かなことかも知れない。

 だが将来、母を批判せずには置かぬであらう子供たちの目に偽りのない母の像を結ばせたい希ひが、ここ四年ほどの未熟な作品をまとめさせる要因になつた。

 内部のこゑに忠実であらうとするあまり、世の常の母らしくなかつた母が子らへの弁解かも知れないが、臆病に守られる平穏よりも火中に入つて傷を負ふ生き方を選んだ母が間違ひであつたとも不幸であつたとも言へないと思ふ。ただどの頁をひらいても母の悲鳴のやうなものが聴えるならば、子供たちは自づと母の生を避けて他の明るい土の上で生きる事であらうか。

 遺産もたぬ母が子供たちに残す歌も、かうして歌集になると世に問ふ意味を生ずるのは止むを得ず、更に広い視野に立ち作歌する日数が病床の自分にも残されてゐるならばこの不備を償ひたいと思ふ。

 なほ昭和二十一年入社以来適切な御指導を賜つた新墾の小田観蛍先生始め良き諸先生先輩、友人のみな様に感謝を捧げてあとがきを終ります。(著者)

  附記・「乳房喪失」といふ題には何とも気が進まぬし、もともと「花の原型」とするつもりであつたが、結局出版社の意向に従つた。

編集上の注記

以下は編集作業の記録および注記です。底本に記載されているものではありません。

作業履歴

  • 作業開始日:2021年3月20日
  • 入力:2021/3/20 – 2021/4/24(月岡烏情)
  • 入力者による初校:2021/4/24 – 2021/4/25(月岡烏情)
  • 他者による二校:(未実施)

注記

  • 5ページ、川端康成の序文は、同氏の著作権保護期間が満了していないため公開を控える。
  • 100ページ、「ベット」の表記は底本の原文のまま。「ッ」が小書きされている。
  • 116ページ、底本とした短歌新聞社版の本書には、山名康郎による「捨て身のエゴイズム」と題した解説があるが、同氏の著作権保護期間は満了していないことはもとより、初出の「乳房喪失」とは本来関係のないものであるため掲載そのものを検討しない。

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