詩歌集『まひる野』 – 窪田空穂

この記事では、現代短歌PD文庫の一つとして窪田空穂の詩歌集『まひる野』の全文をHTMLで提供するものです。

底本情報

  • 底本:現代日本文学大系 28
  • タイトル:まひる野
  • 著者:窪田空穂(1967年没 > 2018年公有化)
  • 出版者:筑摩書房
  • 出版年月日:昭和48年8月15日

初出は次の通りです。

  • タイトル:まひる野
  • 出版者:鹿鳴社
  • 出版年月日:1905年9月

まひる野

椎がもと

われと見る皐月さつきすゞしき夜の風のわが面影を吹きては消すと

照る月の影やくだけて袖にこぼれ拾ふに消えて現うつゝなき夜よる

来ては倚る若葉の蔭や鳥啼きて鳥啼きやみて静寂しゞまにかへる

緑揺ゆする風や洩り来る日の影や林は見する夢遠き国

浅緑敷きては遠き草の中うちわがふる里の響きこゆる

落葉衣おちばごろもわびて倚りける古き縁えん染しむや若葉の香のゆらめきて

朝靄や一本ひともと百合ゆりにまつはりて露と結ぶをあはれと見るかな

人とわれ黙もだしても立つ磯の上波まろらかに走りて還る

冴ゆる笛や聴きつゝ立てば青海あをうみの彼方あなたの島に君とあるごと

潮干潟波が残しゝ貝の殻のひとつを愛めでゝ袂に秘めぬ

さゞ波や海の宮より現れてわれに乗れよとささやぎ照れど

白珠の大き冠のくだけては落つると鳴りぬ遠き雷いかづち

青嵐胸たゞよはす子雀の飛ばむともする翅つばさのふりや

かひなくも流せる涙かゞやきて今日けふよろこびの眼に甦る

大き御息みいきわがためにしも洩らさすと遠くあふぎぬそよ風の夜よる

わが胸に触れつかくるゝものありて捉へもかぬる青葉もる月

縁えんに落つる棟あふちのかげの小揺さゆらぎを指もてとむる山の輿かな

黄昏たそがれの神やいまさむ水につゞく棟あふちの社の枝ひろき蔭

思ふ人ありては添ひつ静かなるかゝる景色けしきに涙おとさば

野に遠き葦の小笛よこの宵を聴きて覚め来む魂もあるべし

手を伸べていづれと摘むにたゆたひぬ笛にと思ふ清き茎草

茎草よ中に葉守の神まさばわがこむる息待ちていまさむ

露にぬれてゆらぐ朝野の細き草吹かば鳴るらむ茎にあるべし

試みに吹きぬる笛の音の冴えに心おごりの青葉牕あをばまどかな

そゞろにも逐はるゝごとき思ひして京に入りけり青葉するころ

行き行きて若葉のかをりたゞならぬ神の忌桓に迷ひ出でにけり

落ちよ滝日のかげ白しろく照らすらむ真夏しばしのほどにあらずや

谷遠し青一色の麻のかぜ小木曽をとめの唄の声する

藤若葉ゑがきて影と戯れつ風来て揺るにおどろき別る

はかな心地涙とならむ黎明しのゝめのかゝる静寂しゞまを鳥来て啼かば

さまよひて黎明しのゝめ行けば木下闇なほわが路のあるにも似たる

覚めはてぬ夢や鳥の音くゞもりて朝靄まとふ椎の下路

露のたま細葉に忍ぶひそめきもさやかに聴きぬ朝の野にして

江の水の覚めてゆらめく黎明しのゝめを別れもわぶる夜よるの面影

さめやらぬ夢を若葉にこもらせて皐月さつきのころを里に住まばや

夏に見る大天地おほあめつちはあをき壺われはこぼれて閃く雫

大海わたつみの波たはぶれて足に寄ると立ちぬ青野の薄月の中

夜よるは月の憩ひの御座おんざ昼はわが挿頭かざしの花を摘まん青野よ

天の星よろこびありて揺ゆらぐとも怖おぢて悸をのゝく夜とも仰ぎし

何はあるも神は安きに導かむ東は京か舟流れ行く

朝逍遥

砂白き磯につくばひ秋の日を大海原に手を浸ひたし見る

早瀬の水時に手をもて偃せきて見つ時に声立て追ひても見たる

傷てを負ひて穴に脱のがれし子兎のまたも月夜を忍び出でにけり

音立てゝ踏むにくづるゝ霜柱母に別れて里出でて行く

帰りゆく秋の燕のあと追ひてふる里遠く離れこしわれ

若き夢や朝はうれしみ夜よるは憎み路に立ちても路行かぬごと

袷着て棗なつめいろづく下蔭に来てはたたずむ物惑ひ顔

花野めぐり走せ行く水や手ひたして冷きにしも驚くものか

朝にしてたのめし夜よるに似もやらず雁は啼けども月は照れども

吹きおろす夕山嵐たとふればやはき手執りて走すらむわれか

憧憬あこがれやある夜おもかげ変らせてわれに白歯の寒きを見せぬ

酔心地さめて驚くこの昼を岡にのぼりて遠く眺むる

野の路をまがるとしてはかへり見ぬ杉の木蔭の壁白き家

わが心老いはせずやとあやぶみて涙落しぬ雁の啼く夜よる

むかし聖きよき霊場とめて捧げゆく歌とも聴けり雁なく声を

夢追ひて春をたどりし路に似ぬと雁よ嘆くか翅はねもやつれて

あゝ荒き嘆きや汝れは雁かりがねは天あめも動けと啼くにも似たる

汝なが嘆き聴けば天あめ飛ぶかりがねよわれも愁ひは泣きて棄つべし

月出でぬひと片ひら寒きゆふ雲の白く照りては消えなむとする

雲よ汝なは夜よるのにほひに憧れて浮れ出でたる天あめなる蝶か

細く靡くひと片ひら雲よくづるゝな眼にも消ゆなと祈らるゝ夜よる

夢覚めつ起ちて眺むるわが眉に続きて照れる大野の雲や

ふるき嘆き忘られかねて幽囚とらはれの身に似るわれぞ雲よ照れかし

憧あこがれつ新しきえぬわが胸のおぞきに似ぬや天あめ飛ぶ雲よ

雲よむかし初めてこゝの野に立ちて草刈りし人にかくも照りしか

わが世去らん刹那に似たる思ひしつ夕ゆふべ静けき雲を仰げば

夢くらき夜半や小窓をおし開き星のひとつに顔照らさしむ

呼ぶとしてふとたゆまれぬ紅き白き芙蓉の園にまぎれ入りしひと

夜よるをそゞろ園に出でゝは秋花の繁みの中に顔埋めて見る

細く洩りし灯影消えたる真夜中を弦ゆづる鳴らしぬ木このこれの院

瓜見ゆる宵の畑路いつしかに祭賑ふ市に来にけり

行きて見ば萩やしげらむ思ひする朝さやかなる小野の彼方かなたよ

松の葉の寒きかげ踏む岡の昼袂あはせて遠く眺むる

この岡の萩の芽わかし白砂の山の兎よ月に出で来よ

椎の木に朝あした眺めし鳥の巣の濡るゝさま見ゆ夜の雨にして

燭とりてものゝけはひにうかゞへば闇に立ちけり一本ひともと銀杏

鈍色にびいろのおん衣ぞよそほひ立つ神の面影見せて秋の風吹く

秋は来ぬ社にこもりて啼く鳥の澄みてするどき響を聴けや

夜よるふかくいづこともなき響して秋しる神の悲しむに似る

秘め持てるゆゑある瓶かめのはかなくも破やるゝに似たる秋の響や

秋草の蔭に隠れて呼びて見むか唄声きよき棉摘みをとめ

忘られてたゞに荒れぬる名所などころか立ちてわが見る露の萩原

彼の白き一群ひとむら萩はぎをめぐり見ば清水流れむ野の旅人よ

いたはらむ身をも忘れてそゞろにも露の萩原裾濡らしけり

海越えてかへる燕の声に似ぬ草野ほのかに聴えくる笛

風低し秋のさやぎを身にしめて誰れ待つとなき門にゐよりし

秋の日や見し朝顔の花おもひ蔓を手たぐりて種子たねもとめけり

落栗の焼くる間ま待ちて唄ひにし唄の童わらべのおよづけゝむか

摘みし草に誰が名負はせむ佐久のゆふべ千曲ちくまの川の北に流るゝ

鳥は鳥屋とやにわれは昔の夢にかへる夕影さむく花に入る時

小夜中を君にと濡るゝ雫原寒き袂の月となりけり

思出のなみだ今宵はうれしきに音を潜めよ市わたる風

紫の葡萄をのぞく小雀の眼まなこたゞよはし秋の風吹く

秋はしも神のたまへる饗宴きやうえんぞ空そらの百鳥もゝとりおりて野に酔へ

思ふこと隈なく語る虫の音かわれは眠らぬ枕の方に

ありとなき風のそよぎにさそはれて乱れてさやぐひと本薄

さだ過ぎし女ひとか秋ゆく野に立ちてゆらぎて見する一本ひともと銀杏

白露や萩のかをりをふくませて揺ぎつゝゐる鳥来て飲めと

葉にこぼれ花にこぼれてわが髪に香をば染しますや露の日向葵ひまはり

秋風に翻り飛ぶ紅葉や疾くとおもふが疾くも飛びぬる

風の来て床とこのふる琴鳴らす日を忘れてありし物をこそ思へ

朝寒あさゝむの袂さぐりて秘めおきしうれしの夢の消けずやと惑ふ

夢は逃げぬ戸に来て歌ふ鳥の音にふと耳かせるわが怠りに

夕逍遥なごみごころを波に憎み小暗き方かたに石投げてみる

老いに泣き若きいたみてたま〳〵の故里の夜を静心なき

秋の野やなにゝ怖ぢてはさはさわぎ隠れまどふか翅白き鳥

流れ去りし舟に今宵の泊はておもひ佇みにけり利根の川辺に

こほろぎのこほろぎ恋ひて音をつくしすだくさま見ゆ露草のかげ

惑ひ泣く行けば悲しき旅の路行かずば寂し里の隈ぞと

古き縁えんや天あめの座くづれ黒雲のあらはれ飛ぶと悸をのゝき見る夜

貝の殻から殻と幷びて踏みゆくに生命いのちかなしき磯の路かな

戸を閉さして叩けど開あけぬ旅の夜に似たるからさを故里に見し

梟の戸に啼く夜半や手にもてる筆あやしくも消えゆく思

夕庭や栗の実落つる音きゝて閉さしたる門かどをまたも開けゝり

夕映えに照りては揺ぐ野の草や鎌かせ童わらべわれも此処ここにゐむ

わが路の行手さへぎり泣きて止とむと見しは夢かや昔の少女をとめ

手枕の夢にぞものは忘れけるうれしいかなや酒といふもの

秋風や路に立ちてはふりかへる老女の顔を白くも吹くかな

水仙

眺めをればあやし五つに九つになりても見する一花ひとはな水仙

黄の蕋しべを真白につゝむ水仙のふとあらはれて闇に消えぬる

山祇やまつみのいまさぬ冬を山に入りこぼれ松葉を掻きてぬすみぬ

盗人ぬすびとのさわぎはやみて山里の夜の明方を雪ふり出でぬ

ぬるみ風巷の雪をわたる夜ぞ緒いとまきかへせ艶えんなる人よ

立ちつゞく松のけはひの神さびによしのありげに行きをはゞかる

年逝く日筥にをさめし夏衣なつごろも香やのこるかと嗅ぎてもみたる

海に来て磯にくだくる波の音にものつぶやかる年の逝く日を

そよ風

昨夜よべの夢おくりて今朝けさの東雲しのゝめのにほひに染まむ如月きさらぎのわれ

春ちかし去年こぞのうぐひす谷かげに歌ならひつつわれを思ふや

花咲かむ夜とも思ひてともし火に油添へては照しけるかな

花待つとおもふに髪はきよき香の染しみて揺ゆらぐと惑はれもしつ

朧なる夜半や対むかへど手にとれぬ人とも見えて涙ながるゝ

春立ちぬやがては花もにほふべしと思をつなぐ天地あめつちの前

たま〳〵に鳥なまめきて牕まどに啼く春を浅しとわがかこつ日を

寐るとすれ花を抱いだくに落ちもゐず闇が洩らせる息いきか微風そよかぜ

微風そよかぜよ汝が手ひろげて抱いだきよるに花は揺めく消ゆかにしては

夜よるの風遠のをとめが黒髪のかをりもまぜていざよひぬらし

夜よるを寐ぬ春の心をいとほしみ微風そよかぜのうちにわれも袖振る

黄昏たそがれや鳥は花間はなまにわが魂は天のこほひにあくがれ往にし

花に寐ぬる小鳥の夢をすかし見てときめき心地野の月に行く

わが植ゑし花は咲きけり思はれて思ひよるなる女ひととも見えて

摘むとすれば菫は指に揺めきぬ天そらのにほひの紫ふかく

夢にしてわが憧あこがれし花に似ず春はかへりて眼に満つれども

夢の台うてなくづるゝ響聴きしかな花白く散る春の夜にして

脚とめて聴くや木ぬれの鳥の声さゝなく節の人しのばしむ

蕋しべの香に染しみぬる嘴くちをひらきては鶯なきぬ黎明時しののめどきを

紫の小草がくれのかよひ路ぢをわれに見られし野の鼠かな

寐ねがてに鬢の毛をかむたをや女めの姿も見えよ朧の月夜

咲きのこる花の紅きを摘みためて夕ゆふべ立ちけり野の路にして

はるかにも眺めやらるゝ春の朝行くに渡りぬ小野の浅水

われと識らぬこの悲のゆゑを説けと人わりなくも春の夜を泣く

雨に啼く小野の雉子きゞしの声に似ぬ桃ちる夜半を旅に聴く笛

惜しみては油添へても語るかな桃咲く里に稀に見る夜半

二月ぐわつの日天そらに夢みて夢の数かず落しゝと見る白梅の花

梅の溪たにこゝに生れてこの花を嚙みて育ちし鳥もやあると

雪寒うこぼるゝ中うちにうぐひすの啼く声聴きて如月きさらぎ送る

春の夜よる老いにし女ひとの化粧して花にあゆむをあはれと眺めし

桜の夜更ふけて散ぜぬ衆人しゆうじんのさゞめくさまを隙すかし見るかな

頭かしらうづめ花と花とのさゝやきのありやと思ふ静かなる夜よる

黒き白き蝶のあまたの胸に生れ飛びさるごとし花に対むかへば

さみしくて野をさまよへば紫の一本ひともと小花眼にひるがへる

湧き出でゝ草にほのめく小野の水有明月夜すかしても見る

海のはな山の花もて路敷かむ夢もて来よや夜を守る神

われさみし覚めよ小鳥と笛吹きて有明月夜野を行きし子よ

朝霧の消えのまに〳〵こち〴〵や覚め出でし花の野に飄る

慣れてわれ秋の寂さびにもおごりしをなぞや涙の春にこぼるゝ

手招けば波も寄り来る春の海白き真砂に腹ばひて見る

憊つかれたる魂よひと夜を谷川の荒き瀬の音とを追ひて走りし

大海の潮しほのかをりもこもるべし秘めてはをしむ筥の中うちの貝

あこがれ

見て思ふ君に会あふべく二十年はたとせをわれは夢路に憧あこがれ泣きぬと

一時ひとときよ闇に照るなる電いなづまとわれに生命いのちの値あたひを見する

わが息に枯れにし花も咲くと思ひ笑みても見たる君に添ふ夜よる

眼め閉とざせど浮かみもかぬる面影や君は春吹く微風そよかぜのごと

戯れに人と別れつ邂逅めぐりあひてほゝ笑みて見る春の夜の月

皐月さつき来ればひと年とせ人と刈りにける菖蒲かをりて手にありと惑ふ

呼ぶべくもわれに名許す人の一人ひとりありと思へどその名を知らぬ

唇くちつぐみ見ては別れし巷人ちまたびとなぞやひと夜の夢には入りぬる

誰が旨ぞわれを思はぬ路にやり思はぬ人の君を見せしは

手を執りて泣きぬわが世の運命さだめもてわが名を君に負はすとしては

天地あめつちに人の一人ひとりをえらびては楽しといふ日寂しと泣きぬ

添ひてあれ髪やはらかき夜の人のとすれば遠く陰府よみにもあるごと

君を宿やどせ時には君を追ひやりてわれと寂しむ胸にもあるかな

深緑ふかみどり天そらにも似よと野をば染め星にも似よと据ゑし夏の人

山に摘みて人に贈ると白百合に紅べにさして見し夏の夜ありし

黎明しのゝめや黄昏たそがれえては人の名を負はしゝ星の消えゆくを見る

星のさやぎ聞ゆとゆふべ立ち出でゝ人と逢ひぬる棗なつめのもとや

たとふれば明くる皐月さつきの遠空にほのかに見えむ白鴿しらはとか君

夜の風に細き灯影のゆらぐ時たゞ強かれと君に云ひしか

曙あけぼのの鐘にまどへる夢の神の忘れて往にし君かとも見つ

たま〳〵に夢は見れども眼ざめては忘れてとのみ微笑ほゝゑめるひと

宵に見て朝あした忘るゝかりそめの夢にも似ばと君にかこちつ

ゆくりなく夢に見えたる面影の清きを恋ひて露岡越ゆる

白梅も瞳あげては宵闇の野を見るごとし君立ち待てば

折りとりて瓶かめに挿しぬる白桃の花咲く日ともなりにけらずや

静かなる胸やたがひに涙落ちぬ桃の林の青葉に立てば

云ひさして涙ぐむ子のわりなさに惑へる夜よるや雁ほそく啼く

白銀しろがねの糸に繋げる影と見つ星に背きて夜よるを立つ人

君が岡にまろくも立てるひと本椎その椎見ゆる有明月夜

人にしもよそへて愛めでし白梅をわびてはひと夜さみしと思ひし

おほらかに君もと強ひし心なさわが往く路はうつゝなの旅

華やげる君が唱歌に君が節に興ぜぬわれを憎むとするか

社に入れば葉守見ずやと袖につゝむ世にも艶えんなるひとの君とて

あえかなる唇くちに草笛ふくませて野に聴く声のさみしき夕

その一夜ひとよ君をなごめむ心しらへあやなや今宵君に泣かるゝ

君が息いきやこむれば笛の音と生れ春の夜覚ましたゆたひ遊ぶ

その人にうれひむ縁えにし負へるべしたゞかりそめや上田うへだのひと夜

天あめにして白き花咲く苑の中われ呼ぶまでを君が名秘めよ

人よいづこ麗しく咲く花見ては蔭に隠れて名をば呼ぶかな

尋ね来て対むかへば花はひるがへり涙に消えてさみしき頃や

われよ狂ふ市に遠人とほひと望みては君もや来ると心をどりて

君なくて何を栄はえなる身なりとや天そらにわれ見る星は照るとも

朝を消ゆる露も夕ゆふべは立ちかへりもとなる花の萼うてなに置くを

許されし縁えにしの糸のまさきくも手には繋げど曳きぞわづらふ

怨みあるなひとつ縁えにしの糸もちてたがひに曳きし人と思ふに

縁えにし領ゝる神のおん手にゆだねては又の世にして見んとこそねがへ

唇くち噤つぐみ言はぬに愁ひ汲まぬひと憎みもかねてわりなきかなや

人の一人ひとりわれぞ涙はそゝげるを足らじとするか悲しき人よ

うたてわが激しかりける怨みをもわすれて泣くよ別れといふ日

別れとや一夜ひとよの夢や見せにけむはかな怨みも忘られかねて

別るゝ日君が涙のなど熱あつくわが路かくは寂しく見ゆる

生きて見じと云ひし怨みもふと忘れ人なつかしき艶えんなる宵や

戯れに別れてもゐる思ひしつ秋の十度とたびをあひも見ぬ人

泣きつゝもわれと涙をうたがひし筑摩ちくま少女をとめは眉若くして

同じ谷の梓に落つる露汲みてともに育ちし君にはあるも

消えてゆく雲のひとすぢ野の家のとありし宵の忘られがたき

藤衣

母のみ魂離るゝひゞき耳にしぬ厳おごそかなるに目くるめきては

愛子まなごわれ袂かざしておん顔を隠しぞまつる運命さだめの前に

誰れ定きめてひと世と云ひしわれはしもまた会あはむ世の母にありと思ふ

姉よ涙隠したまへよこの夜をばかぎりの母や惑ひたまはむ

生きてわれ聴かむ響かみ棺を深くをさめて土落す時

おん棺舁かかむとてわれ走りしや山越え七里うつつなき旅

碑いしおく日重きに母のわびたまひ冷きにしも憎むとまどひぬ

榊葉のそよぎや母のみ息いきまじりみ声ありしと惑ひて泣く夜

往かす国こよなくよきに愛子まなごをも忘れたまひし母かと頼めつ

永久とこしへや頼み斎いつける白珠しらたまのくだけを見する悲しき教をしへ

鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか

野の雉子きゞし山の雉子きゞしも来ては鳴け御墓みはかけうとく悲しきさまや

面影は深くも胸に刻みたりむなしき墓よ苔むさば蒸せ

ふる里の母や召すらむ思ひして夕ゆふべの鐘の聴くに泣かるゝ

われや母のまな子なりしと思ふにぞ倦みし生命いのちも甦り来る

残紅

三月やよひの香天そらにかへりて海の風すゞしき朝を君遠く送る

照れる日や花はにほひて鳥啼くを遥けき路も行けかし君よ

この磯の海の響とかの磯の響と似ると君はいふらし

若き胸に吸ふべく風や清からむ海の彼方あなたの大野の夏は

野の霧に帰さ惑ひし君と思ひまたの朝あしたは帰ると思ひて

 〇

野の霧に帰さ惑ひし君と思ひまたの朝あしたは帰ると思ひて

牕まどに倚りてその名を呼べば星ひとつ揺ぐと見えつ寂しき夕ゆふべ

とこしへに稚をさなかるべき君をしも思ふに老いつ春また暮るゝ

陰府よみの戸も越えては君をぬすみ来つ胸の奥にも斎きぬるかな

花散りし園に迷ひて香をもとめわぶるが如し君を思へば

かぎりなき時も所も思ふまゝに占めてはわれに対むかひてある君

 〇

わが胸に君はうつりつ君が胸にわれは映りつ路遠きかな

待つ人の君あるにこそ総ふさの路曳かるゝごとき思ひにたどる

むらさきの小筑波ちかき椽えんの上むかしの君と蹲り見る

君とわれ対むかひてともに言葉あらず纜ともづな解きぬ利根の秋の日

舟の中まろ寐姿の小さくむかひたゆたふ波に行くへ定めず

秋の夜よる静女しづが墓ある里に行くと花草小径ともし火とりぬ

鳴らし見よとわれに勧めぬ総ふさの少女をとめしめ緒ほつれし静女しづが小鼓

萩若葉ぬすむと兎忍びよるを月にすかして眺むる夜かな

 〇

愛めづるにぞ鳥もその音の思ひをば数ふるものを山にゐよ少女をとめ

夕栄ゆふばえに姿かゞやく山の子の髪にかざしぬ紫の花

親もすてぬえ言はぬ胸のうたがひのわれを曳きてと涙拭ふ人

遠くこそ別れは来つれ母が息いき君が夢路の息とや通はむ

会ひ見てはたゝへまほしく別れては泣かまほしさや才高き君

 〇

現なの末期いまはの唇くちに通ひけむ椰子の木立のうら葉吹く風

いとせめて覚めて泣きけむ夢の間まのその故里に着きぬるを君

さりともの惑ひにゆふべ門かどを出で花ある方に君呼びて見る

 〇

ありし日を思へばわれや別れ来て海越えがてに嘆く燕か

この心君と会あふべく君が住む南信濃よ雲白く照れ

いたみては息とも洩るゝ歌ぞそはやさしき人よ耳にはするな

 〇

海越えて行かむ別れの磯にして妻なき君をさみしとは見ぬ

はつ袷露におもたき夜もあらば帰りも来よと人に別るゝ

 〇

しら髪に夏の日うけて草刈りし叔父がみ魂にやすきを賜ふか

 〇

顧みて寂しかりけむ前さきの日を驚く日あれ友よ女君めぎみよ

離しおきてふたゝび合す今日の日を神や笑まして見そなはすらし

 〇

むらさきの花さく藻をば簪かざしとも衣きぬとも見ては隠れ入りし人

藻の花を分けても見ぬる水底に人の面影ありやと思ひて

 〇

涙もて行く路つゞる鳥あらば或ひは姿君に似つべし

人とわれと繋ぐ涙の見えずあらば狂ひはつべき世にもあるべし

椽えんにちかく虫しげく鳴く夜よるにしてかなしき姉の涙を拭ふ

破やれし瓶の破片かけらを拾ふ身にも似て姉に添ふ夜の涙のしげき

 〇

秋早き信濃の里の初袷野菊の中に君立つらむか

若き僧の寺を棄てたる物語君に書かばとわびて筆執る

君に見る天あめの花摘む歓喜よろこびと陰府よみの戸たゝく嘆きのさまと

板廂

緑をば御衣おんぞとなしてこの小野を統すべたまふ神に仕へたる家

葦ゆるがせ流るゝ水をうかゞへば野に立ちし親の面影見ゆる

野の鳥よ別れてつひに帰り来ぬわれを思ひて啼く日もあるか

鳥の啼く槻の林の板廂そひ寐の母にならひにし唄

筑摩野つくまのに古りたる家の戸を出でゝ旅行くわれを泣きける甥よ

故里に聴きにし虫のかすかにも雑まじりて鳴くよ虫売る家に

黄昏たそがれの鐘のひゞきのすゑ追ひて消ゆらむ方をふる里とこそ

雪ついばみ低くも歌ふ鳥とこそ雪深き野に生れぬる身の

野の鳥よ古りし廂にうたひては父笑ましぬる朝もあるべし

御嶽颪みたけおろし荒きがうちに亡き父のと息まじりてわれに聞ゆる

わが魂や青野がうちに埋れたる親の涙を拾ふとなげく

巡礼

麻ごろも黒くまとひて
背せな見せてたどる巡礼、
鉦ならし、鳴らしながらも
父いづこ、母はいづこと、
幼声をさなごゑいともあはれに
恋ひつゝも唄ふを聴けば、
寂寥せきれうや声ともなりて
秋の日を嘆くがごとく、
静かなる天そらも耳敧たて
聴きつゝも曇るとぞする。

あゝ唄や、聴きつゝあれば
わが袖も涙にぬれて、
別れては遠きふる里
こゝにして映うつると思ひ
袖振れば地に曳く影の
そゞろにも寂しく見えて、
われもまた孤独の身をば
嘆くなる彼にも似たる。

さなり、げに、われも巡礼。
その唄の寂しとは聴け、
怪しくも胸に沁みては
包みては言はぬ思に
通ひても聴ゆるものを。
その唄を唇くちにまねべば
わが思あやしく載りて、
寂しさにこもるゆかしさ
隈なくも浮べるものを。

鉦遠く、聴きこゆるうちに
まじり来る唄のひゞきや。
黎明しのゝめを路にくだくる
露の音ねとやはらぎ来れば、
われは今、草青やかに
靡きよる大野に立ちつ、
霜柱、むすぶさやぎと
その唄の沈みも行けば、
われはまた、黄なる岩山
唇くち嚙みて立つと惑ひつ、
巡礼や唄ひゆくなる
唄のあと追ひてはるかに
辿りゆく魂たまともなりて
夢心地ながくたゝずむ。

緑蔭

緑蔭の際きはやかに
地に映うつる五月ぐわつの日、
桑林くはばやし、ふるき路
たどりては深く入り、
覚さめて見る白日ひるの夢
興じつゝ眺めしか、
ふと起る鳥の声、
こぼれちる実のひゞき、
わが夢は破れさり、
夢よりや生れたる
﨟らふたくも小さき女ひと、
わが前にたゝずめる。

小さき女ひと、君が手は、
むらさきの実を拾ひ
わが唇くちを染めにける
さながらの手ならずや。
小さき女ひと、君が微笑ゑみは、
枝撓ためて実をとりつ
与ふるにこぼしける
さながらの微笑ゑみならずや。
対むかひつゝ君見れば、
君やわれ旅に逢ひ、
黎明しのゝめを夢かたり
西東にしひがし、わかれては
たがひにも忘れさる
はかなさに似てはあれ、
築きたる夢くづし
寂しみて袖嚙む日、
立ち慣れし桑林くはばやし、
もとの蔭おもひ出で、
古いにしへの君が身を
ゆくりなく見するとか。

桑の葉に風鳴りて
こぼれくる紫や、
小さき女ひと、身を飜かへし
背を見すと驚けば、
風と共に消えさりて
呼ぶべくも影あらず、
おのづから湧く涙、
あゝわれは、今にして
初めても君に泣く。

波の香

小夜中に海にむかへば
いみじくも香かをりぞうつる、
ほのめきて、むかし、谷間たにまの
蘭あらゝぎの花の露あり、
みだれては、桂の杜の
こぼれ散る木々の下露、
さながらに香をば伝へて
わが袖に浸まむとするかな。

見かへれば、昔恋しき
かなしみは海にもあるか、
潮沫しほなわのひとつ〳〵や
われとわが夢に籠りて
覚さまされて泣くにも似たる、
波の香の深きが中うちに。

小夜嵐

青やかに立たむ若葦
そのほそ葉風に鳴りてか、
さやかにも澄むらむ星の
その中にたてるさやぎか、
小夜中をひとり眼ざめて
寂しくもわびぬるわれに、
などさしも音づれきては
などさしも涙さそふや。
憧こがれつゝもとむるものに
えも逢はぬながきかなしみ、
もとめては憧こがれむものも
いつしかに忘れしなげき
その声のわれを覚まして
誘ひては遠く行くかな。

朝夕

あけぼの園にたゞずめば
花ゆるがして起る風、
来ては袂に、わが髪に
忍び入りてはそよげども、
捉ふとすればのがれ去り
行きては潜む草のかげ、
青葉のゆらぎとまるとき
ひそめく声もまぎれにし。

夕ぐれ杜に隠れては
雉子よぶと吹く雉子笛や、
ひとたび吹くに慕ひ来て
面影見すれ、重ねては
吹けど鳴らせど帰らぬに
笛かみて立つ闇の中。

小貝

うるはしき光と共に
さゝ波の戯むつるゝあした、
そのさまのゆかしき恋ひて
すゞろにも巌いはほはなれつ、
まだ知らぬ浪路わたりて
興じつゝ来ると思へば、
いつしかに日影は消えて
浪くらく轟きわたる。

わが巌いづくにありや、
眺むれど見れども見えず、
母恋し、恋し母よと
なげきつゝ海なる小貝、
すべなくも照る日をあびて
真砂地の磯にかなしむ。

露と露

萩にしも宿るしら露、
むらさきの桔梗の露の
ねびたると思ひかはして
消えかへり恋ふとはすれど、
かれはしも宵におく身の、
これはしも朝にちる身の、
夜ひと夜のへだてかこちて
互ひにぞ風にをのゝく。

げに同じ園にやどりて
おなじくも露と結べど、
この露もえしも移らず、
かの露もえしも移らず、
もろともに散りてくだけて
さみしくも初めて逢ふか。

眠

小枕のつめたき愛めでゝ、
頬あてゝは静かによれば、
わが息いきは唇くちにすゞしく
双そうの眼に華はなはみだれて、
手や胸や、肌やはらかき
人の来て抱くがごとく、
今、眠われを引きては
その国に行くとするかな。

昼はしも心、心を
欺きてわれを隠しぬ、
わが願ふねがひのねがひ
いざ来てはわれに見えよや、
笑みつゝも寂しき一日ひとひ
代ふるべく泣かむ刹那に。

夢のゆくへ

例れいならぬ心ときめき、
われとその理由ゆゑもわかぬに、
静かにも胸かきいだき、
その奥をすかしも見れば、
あゝわれは夜よるの枕に、
酔ひつゝも見たるよき夢、
朝明あさあけのあわたゞしきに
隈なくも紛らしゝかな。

よびかへし見んと思ひつ、
失ひし羊をさがす
心づくし牧者ぼくしやに似れど
その姿またはかへらず、
われとわが生せいの一部の
わがものにあらぬを泣きぬ。

懶き音

夏の日を、青垣つゞく
都はづれさまよひ行けば、
ゆくりなく笛の調しらべの
起りきてわれをとらへぬ、
かゝるころ山路やまぢをゆきて
鶯や聴きけんごとく、
たゝずみてわれはその音ねの
心をば汲まんとはしぬ。

あゝ笛よ、鳴らば高くも、
その管の裂くらんまでも、
然しからずば寧ろ消ゆかに、
音ねをつゝめ管の中にも、
かゝる音は、聴くにも憂しと、
歩みつゝわれはかこちぬ。

夏の蝶

青一色、稲田のうへに
ひるがへる白きものあり。
夏の日を翅つばさにうけて
陽炎と化すらんけはひ、
描きたる絵ともまがひて
一つところ去らぬを見れば、
こや春の、花さく朝に、
生れにしやさし蝶なる。

見て過ぎつ、二時ふたときありて
前さきのところ帰りも来れば、
なほ居ゐるよ、同じき蝶の
えも去らず飄りつゝ。
日に燃ゆる紅き翅つばさや、
われはふと怖おそれいだきぬ。

枇杷

逍遥の帰さを園そのに
鳥逐ひて摘みし枇杷の果、
おもひ出でゝ手に取らすれば、
かばかりも歓ぶものか、
枇杷とわれ眺めかはして
をどらする瞳の色や、
うなゐ髪、下総しもふさの児の
たやすくは唇くちにも触れず。

同じ木の同じ枇杷の果、
その汁つゆの甘きをわけて、
君が微笑ゑみにさそはれつゝも
かへり見る緑の大野、
雲しろき筑波の山も
かゞやきて笑めるに似たる。

板屋

旅なれば涙もおつれ、
疵おひてにぐる子兎
ひとりしてわれも急ぎて
稲倉の嶺こゆれば、
古里やとほくつゞける
社かげの板屋の廂、
衰へて生命いのち忌むなる
老人おいびとの姿と見ゆる。

野に出でゝ糧かてをもとむと
照れる日と戦ふ家族うから、
つかれては帰らむ家の
たそがれは寂しく見ゆか、
たまたまに通ふ旅びと
急ぎつゝ見かへりてゆく。

旅人

ふる里に帰り来りて
産土うぶすなの社にまゐれば
黄にゆらぐ銀杏の大木おほき
めぐりては村の童わらべの
渡鳥わたりどり実をあさるとも
さわぎつゝ拾ふ落葉おちばや、
忘れたる幼なかりし日
夢としもかゞやき見ゆる。

幼くもわれもなりつや、
そゞろにも群むれにまじれば、
見も知らぬ旅人たびびとの来て
まどはすと言ふらむ瞳ひとみ、
怖しきものを脱のがると
われ棄てゝ子らは走れる。

うたがひ

かゝる悲しきうたがひも
あるべきものか、或ある夕ゆふべ
耳につめたき声ありて、
汝が母とよび、たのめるは
まことの汝れが母ならず、
父と思ふも父ならず、
何れも汝れをあざむける
由縁ゆかりもあらぬをこ人びとぞ。
わがこの言葉いなむべく
証明あかしもあらば示せとて、
声は背後うしろにひそまりつ、
えしも答へず、涙たれ
口惜くやしむわれをあざ笑ひ、
疾く〳〵とこそ促せれ。

酔

灘なだに名ありと聴く酒や、
夕ゆふべ、灯影にむかひては
ひとりの興の尽きやらず、
さらに杯みたしては
飲むともすれば、あゝ胸は
既にえならぬ香かをりにも
飽きてもあるか、さばかりに
愛しゝ酒も厭ふなる。

杯の数かさねては
身をさながらの瓶にとも
願ひしに似ず、わが酔ゑひの
かぎりあるをば思ひては、
酒ながめつゝ、寂しくも
醒めゆくわれを嘆くかな。

枳殻

行くべき春を行かしめて
山時鳥鳴く日をば
わが日とするか、枳殻からたちの
花はつ〳〵に咲き出でつ、
覚めて静けき緑野みどりのや
遠く望みて立つ見れば、
尼そぎすがた堂に入り
背せな見するにも似たるかな。

黎明しのゝめの露、母としつ
黄昏たそがれの露待ちうけて
消えても行かむ様ながら、
風さゝやげば飜り
日のうかゞへばかゞやきて
笑みてもあるや枳殻の花。

根分

日かげ親しき秋の日や
坪に、枯れたる朝顔の
蔓を曳きては、菊の苗
移し植ゑよと親はいひ、
わが手執りてはやさしくも
根分ねわけのすべを教ふなる。

あゝ白菊のにほふとも
打背うちそむきては、たゞ胸に
咲き散る花に興じつゝ
若きをわぶる身ならずや、
親よあはれめ、子は君が
静けき胸に遠かるを。

露

雲ただならず更けてゆく
その夜来て啼くほととぎす、
かなしき声にかつ添へて
こぼしゝものゝ涙かや。

御空みそらはるけき月の宮、
常処女とこをとめなる姫御子の
さすが寂しき袂より
散りしやまたは野路のつゆ。

朝と夕くれとの行き合ひに
こぼれて落つる露の玉、
そのいろ清き野辺にして
うたひし唄も老いしかな。

えにし

まほに見ずともしばしだに
忘れて君のあるべしや、
思ひ出でゝは秘ひそやかに
泣かむのみなる身ならむや。

ひともと雌蕋まもりては
花に雄蕋のおほくあれ、
われならずして君ならで
あひ知るものもなかりし世。

命運さだめのよそに持つ縁えにし、
ありとしわれは思へるに
さなりと云へよ重ねても
いま真夜中の星の上。

薫風

小夜中くらき沖のうへ
潮の寄するを聴くがごと
遠野ほのめく緑より
あらはれて来し夏の嵐。

川瀬におこるしら波は
ひるがへりたる陣の旗、
疾風はやてかなたに浮城や
雲うるはしき空に入る。

いみじきわざを眼にも見る
夏逍遥の小野の昼、
せまき思ひをかへり見れば
つきなき涙こぼるゝよ。

覚めぬ眠

覚めよ稚児、汝なが手伸べては
顔蔽ふ白布しらぬの去とれよ。
よろこびて聴きにし小鳥、
人あらぬ室へやとやおもふ
椽えんに来て覗ひ啼くを。
忍びいる秋の日影の
汝が髪を細く照して
眉にしも寄らむとするを。
覚めいでよ、微笑わらひてはこの
静かなる室へやかゞやかせ、
泣けよ、さは砕けもしけむ
親ごゝろ甦らむに。

うつむきて白布しらぬの去とれば
あゝ寒き汝れが面おもてや、
死の相そうは淡く掠かすめて
いと遠き陰府よみにも走り、
試に額ぬかにさはれば
つめたくもわが手ふるへて、
燭とりて照しても見る
夜よるの間まの氷の海や。
抱きあげ、愛あやしゝ日をば
憶ひつゝ汝れ見かへせば、
繭やぶり、舞ひてはるかに
消えてゆく蝶とも見えて、
怪訝や胸にあまりて
気遠くも厳かなるよ。

あゝ稚児よ、生るとしては
汝が甞めし激しき悩なやみ
徒あだならずこゝに一つの
生命とかゞやき出でつ、
うまし味や母が垂乳たらちに
飽きたりて、瞳あぐれば
情ある笑顔を越えて
円らかに照れる大空おほぞら、
地に満つる花を眺めて
汝がこゝろ躍らざりしや。
今やまた激しき悩なやみ
死の味を甞めはこそすれ、
顧みつ、得たる力に
将来を思ひはかれば、
この路やさらにかしこき
光明に続くを思へ。

かぎりなき、大き御旨みむねの
み情を思ひたのめば、
永遠にあらん願や、
永遠にすゝまむ願、
与へては徒たゞに奪ふと
など汝れの疑ふべしや。
さりや汝が唇見れば
閉とざしたる堂の扉の
開くべき時を待ちては
開くとも言ふらむごとく
閉とざしたる両の眼まなこや
黙禱の深夜のすがた、
大御姿、胸にうつるを
待ちつゝもあるにも似たる。

切なるは親の心や、
その手より大き御手に
一向ひとむきに委ねまつらむ
この日をば思ひ、つゝしみ、
美しく稚児よあれかし
大御手に賄まひともなれと、
霧の下、露にあらはれ
咲きてある秋の野の花、
桔梗きちかうに紫えらみ
女郎花、黄をばえりつゝ、
折りためて、汝れが棺を
こよなくも装ひけるかな。

貝の殻

海浜かいひんに来て見れば
白き貝、あかき貝
重なりて、眼も遠く
波の縁ふちつゞりたる。
わが脚あしや踏むはその
歓楽のふるき跡、
わが脚や立つはその
滅亡の墓の上。

波は来ぬ、海の胸
ゆるがして走せ来れば、
あかき殻、白き殻
相触れてさゝと鳴る
波の穂を抱きては
まろぶかな、鳴りつゝも。
甦よみがへる夢かさは
歓楽よろこびの追憶おもひでか。

海浜の貝のから
見つゝわれ佇めば、
その生せいのひとつだに、
その夢のひとつだに、
かひなくも亡びしと
わが胸はえおもはず。

春夜

月あれどいづくにか、
雲しろく遠く連なる、
花の樹の繁れども
おぼろげに影と重なる。
 あゝ春よ、春の夜よ。

そよぎよる風の味あぢ
清き唇くち走すらむ息いきか、
おぼつかな物の色
佳よき女ひとのうしろ姿か。
 あゝ春よ、春の夜よ。

声立てゝ人呼べば
いざよひて遠き谺こだまや。
手ひろげて抱だきよれば
あたゝかし、花も樹立も。
 あゝ春よ、春の夜よ。

春日

君恋ふとかこつ時、
たま〳〵に飛び来ては
鶯や高鳴きつ
佳よき声の空としぬ、
鶯は飛び去りて
寂寞のかへる時、
われはまた音に立てゝ
つぶやきぬ、君恋ふと。

君恋ふとかこつ時、
たま〳〵に風の来つ
花ゆすり夢織るや
麗しく眼の前に、
風やみて花沈み
夢に継つぐ現の憂う、
われはまた音に立てゝ
つぶやきぬ、君恋ふと。

亡き母

なごみ心地やえも知らず
涙は頬ほほを伝ひぬる、
われは心につぶやきつ、
わが母われを待ちますか。

胸を抱いだけば、なつかしき
情なさけけは波と湛ふなる、
その波の間まに現はれて
島とも浮ぶ母の顔。

報酬むくいなくして賜ひたる
一人ひとりの母の愛により、
われ天地あめつちをうるはしき
栄さかえの台だいと覚えにき。

母、われ待つと思ふにぞ
墓の彼方かなたや爛漫と
花咲き照れる路あるを
夢とはなくて見ぬるかな。

いけにへ

羽黒山はぐろやままつれる神の
みつぎにと、大野の人の
曳きて来て御前みまへ去らせず
繋ぎたる牝牡めをの赤牛あかうし、
いとかたき綱にわびつゝ
かしこみて蹲りたる。

草刈りて祝部はふりべの人
うづたかく飼ひてはやれど
眼をあげて牝を見る牡牛、
尾をふりて牡を見る牝牛、
いぢらしや嘆きあひつゝ
その草も食はまむともせず。

大神おほかみの御前みまへにありて
いけにへの誉ほまれ得むより、
生れてはそこに育てる
大野辺の草やこひしき、
もの食はまぬ牛にしあれば
やがてこそ骨も見ゆなれ。

杉すぎ檜ひのきものさび立ちて
回廊の朱あけをかくしつ、
神鈴しんれいのとほく聞えて
かしこさの身にしむあたり、
行きて見よ、牝牡めをの赤牛
寒げにも石と臥すなる。

呼びなむ母も

呼びなむ母もあらぬ汝なれ、
稚きよりまつはりし
わが膝いまは離れても
一人ひとりいづこに行かむとや、
母の名によりわれ呼べど
呼べど帰らぬ心とや。

げにふる里もあらぬ汝れ、
われある方をふる里と
慕ひてあともつけぬるを、
汝がふる里の名によりて
呼べとわがある門辺には
または帰らぬ心とや。

来し方おもへ、われなくば
えあらぬ身ぞと泣きし汝れ、
われも嘆きはあらせじと
悲しきよすがあはれむを、
誰れかなにをかさゝやきて
かゝる別れは見せぬるや。

あゝわれおきて一人ひとりして
行きなむ路も持てりとや、
籠に馴れぬる雛鳥の
ひそかに籠をぬけしごと、
姿つゝみて行きにける
汝れを思へば胸いたまるゝ。

宵闇

われひき入るゝ物の音ねよ、
鳴けば聞ゆる、聞けばわれ
いとゞ暗きに遥けきに
導かるゝと思ふかな。

雨とならむの宿の闇、
雲たゞならぬ市の隈
何ぞ、簀子のあたり来て
暗き思ひを伝ふるは。

あゝあゝ染めし幾巻いくまきの
いたづらなりし歌の反古、
せめて寄せむの君はあれ
陰府よみにもつ名もしらぬわれ。

たゞ夕波の行きのはて、
小夜吹く風の吹きのすゑ、
見えし面影、かなしくも
今宵汝なが音ねに曇らむよ。

やむとしもなく鳴く声よ、
しきらばいかに夜もすがら、
さらでも痛きわが胸の
つひに今宵を砕けむか。

朝なぎ

そと開けてうかゞふ牕に
はて知らず重なる闇や、
をのゝきて閉すとすれば
疾としや風白く飛び来て、
手にもてる細き灯影も
奪ひては飛びても去れる。

迫り来るは主ぬしか闇夜の、
大海わたつみのそれのたけびか。
つたなくも宿りしものや
磯の家旅寐のひと夜、
現なきわれかのまどひ
わが魂の終りと見ゆる。

夜は明けぬ、雲紅らみて
円らかにかゞやく海や、
唄のせて漕ぎゆく舟の
唄のふし真似まほしくも、
立ち出でゝさまよふ磯辺
わが胸はほのかに遠き。

いづこにか物の音たちて
たゆたひて袂に忍ぶ、
手招けば沖つ白波
うねなして寄りても来るを、
かへる波乗りては、さらば
識らぬ国訪ひても見ばや。

早春

春早き日や、野に来れば
春の影こそ曳かれたれ、
黄にこぼれては菜の花の
夢を綴らむうなだれや、
麦の青葉は片なびき
過ぎゆく風を追ふとする、
ふと眺めてはわが心
躍るともすれ、見返りて
「野よ、わが思ふ夢に似ず。」

たどりて遠く、楢の丘
高きが上に登り来ぬ、
静けさ見する葉の色や、
心をさそふ淡き香や、
かすかに遠き鳥の声
鳴き去る方に眺むれば、
緑濃き空、ひとひらの
白き雲こそ流れゆけ、
われはわが夢求めては
胸にすかして認め得ず、
「野よ、汝は夢を奪ひぬる。」

おもかげ

春の昼静かにて
明るしやわが室しつは、
何事のおもひなく
ひとりして坐しをれば、
わが心ゆゑ知らず
平安に満たされつ、
消え去るや、軒にして
歌ひたる鳥のこゑ
まぎるゝや、牕まどにして
映りたる花のかげ、
われはげにたゞ一人ひとり
世にありて生くと見え、
夢あらぬ眠とも
たのしさは身を包む。

ふと見れば、眼の前の
白壁に人の影、
波の間まにうつりては
沈むなる鳥かげか、
夕空にかゝりたる
ゆくりなき虹の輪か、
忽然こつねんと清き女ひと
おもかげをあらはして、
美しき瞳あげ
わが姿ながめたる。
われもまた驚かず
おほらかに見かへして、
黒髪の艶えんなるも、
くちびるのにほへるも、
魂の色見する
瞳をもながめつゝ、
唇くち洩るゝ息いきの香も
相まじる親しみや、
刻々と移りゆく
時の間まを覚えしか、
面影はつと消えて
われをこそ残したれ。

あゝ女ひとよ、君は誰たそ、
何処いづくより来りしか、
見かへれど、かゝる女ひと
生きてわれいまだ見ず、
今にして初めても
相識ると覚ゆるに、
何なれば、わが胸は
いと遠き昔より
親しみてあるがごと、
女ひともまた同じくも
親めるわれのごと、
さばかりもおほらかに
瞳をば合しゝや。
女ひとやわれ、相共に
あるべくも契りては、
遠き世に別れては
忘れてもある仲を、
思ひいで訪ひも来し
心ゆくこの昼か。
そよ、胸に親しみつ
憧あこがるゝ前生や、
君をしも中なかに据ゑ
尋ぬれば、ほのかにも
夢のごと映り来る
わが胸の奥にして。

従妹よ

従妹いとこよ、君が生れしは
夢ゆたかなる京の中、
愛し斎いつける親の手に
童女わらべとこそは育ちしか、
親失ひてたちまちに
寄るべもならぬ孤児みなしごの
憂きめ多きをあはれみて
迎ふる叔母の手に曳かれ、
馬の背にして越ゆる山、
雲低く飛ぶ筑摩野ちくまのの
稲田の中の一つ家やの
娘となれる秋の日や。

京にも増して賑はしと
そゝのかされし夢をしも
名知らぬ鳥の耳ちかく
来て啼くこゑに覚さまされつ、
稲見て知らず、案山子かゝし見て
ゆゝしむ君が瞳には
都の彩のとゞまりて
悲しき色に沈めども、
なくてえならぬ母ぞとも
知るかや、終にわが母の
顔あふぎつゝ面おもはゆく
母とこそ呼べ京言葉。

一人ひとりの母にすがりては
泣くこそ子には幸さいはひを、
第二の母の袖曳きて
愛だれぶりの戯れや
笑める姿を眺めても
あはれと思ふこの朝あした、
更に離れて、いと遠く
行くか木曽路の雪の渓たに、
君にも伯母の、第三の
母となるべく、同車して
伴はむとて頻りにも
門かどにして呼ぶ、あゝ君よ。

 (明治三十八年九月刊)

編集上の注記

以下は編集作業の記録および注記です。底本に記載されているものではありません。

作業履歴

  • 作業開始日:2021年4月26日
  • 入力:2021/4/26 – 2021/5/11(月岡烏情)
  • 入力者による初校:2021/5/11 – 2021/6/3(月岡烏情)
  • 他者による二校:(未実施)

注記

  • 「緑陰」の詩の1行目は、「緑」が旧字となっていたため新字に直した。
  • 「夏の蝶」の詩の最終行は、「われは子と」あるが他版を参考に「われはふと」と直した。
  • 国立国会図書館デジタルコレクション 872886 では35コマ目として46、47ページが重複して入り込んでいる。

参考

次の書籍も参考としました。

  • 『空穂歌集』(中興館・明治45年4月)国立国会図書館デジタルコレクション 872886

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