史上最強の柔道家伝説力ランキング

この記事では、過去も含めて日本のみならず世界の柔道家の中から最強と呼ぶにふさわしい人物をランキング形式で紹介します。

1位 木村政彦

1917年(大正6年)生まれの柔道家です。全日本選手権を13年連続保持し15年間不敗のまま引退しました。この当時の柔道日本一ということはつまり柔道世界一はもちろん、格闘技世界一に近い意味合いがあったことでしょう。その偉業から「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と称えられるとともに「鬼の木村」といった異名もあります。

講道館柔道だけでなく、幼少の頃は古流柔術の竹内三統流柔術を、のちに牛島辰熊に見いだされ拓殖大学で高専柔道も修めました。恵まれた体格に加え、畳をうちわ替わりに扇ぐなどといった化け物じみたパワーの逸話が多く残っています。寝技に帯や袖を使う技術や、立ち技から腕緘への変化などといった技術の開発も行うなど、テクニシャンでもありました。才能に恵まれながらそれにうぬぼれず「3倍努力」を掲げ誰も手にすることができない強さを手に入れたようです。

引退後プロレスラーに転向し、力道山との試合において大敗したためにその名声は大いに傷つきました。力道山側の騙し討ちとの話もありますが、このことさえなければ、日本柔道史上いや日本格闘技史上もっと大きな存在として今も語り継がれていたかもしれません。

2位 山下泰裕

1957年(昭和32年)生まれの柔道家です。全日本選手権9連覇、7年余の無敗、203連勝(引き分け含む)、対外国人選手には生涯無敗(116勝無敗3引き分け)などといった記録を打ち立てました。柔道が、そして日本が世界に広がる中で強い日本となることを一身に背負い、そしてそれを実現して見せた象徴的な柔道家でした。

政治的理由で日本がモスクワオリンピックをボイコットしたために、次のロサンゼルスオリンピックにしか出場はできませんでした。モスクワの涙、そして満身創痍の状態でつかんだロスの金メダルと、悲劇的なドラマ性も合わせて、人々の記憶に強く印象付けられた柔道家でもありました。

怪我の影響もあり28歳という若さで引退したこと、また国際柔道の発展期であったこともあり、その記録としての数字はインパクトのあるものばかりではありませんが、203連勝という記録にはまだ誰も近づくことすらできていません。

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3位 テディ・リネール

1989年生まれのフランスの柔道家です。2007年の世界選手権で史上最年少で優勝すると、そこから世界選手権10大会連続優勝(100 kg超級8連覇)などを達成し、いまだに(2020年1月現在)世界の頂点に君臨し続けています。今や競技人口では母国日本を上回る柔道王国フランスが生んだ、現代国際柔道の最高傑作といえるでしょう。基本に忠実なしっかりとした技術の立ち技とともに、2mを超す圧倒的な体格とパワーで危なげない試合を組み立てます。

2010年9月から2020年2月までの9年5カ月の間には154連勝という記録を立てています。

4位 三船久蔵

1883年(明治16年)生まれの柔道家です。講道館柔道を開いた加納治五郎の理論を実践において実現し「理論の嘉納、実践の三船」とも称されました。講道館柔道十段位を授与された数少ない柔道家で、その優れた技術から名人と称えられました。球車、大車、踵返、腕挫三角固等多数の新技を発明するとともに、三船の代名詞ともいえる空気投げ(隅落)を生み出しました。足を掛けたり腰に乗せたりなどはしないで、体捌きだけで投げる技法は、名人の印象をより強めている感があります。

5位 前田光世

1878年(明治11年)生まれの柔道家です。アメリカへ柔道使節として渡り、その後使節団を離れ全米各地を転戦しました。さらにはメキシコ、ヨーロッパ、ブラジルと各地を転戦し、柔道の威信を高めるとともにその普及に大きく貢献しました。柔道着を着ての試合においては、何千試合もの果てについに無敗だったとされています。コンデ・コマの異名も。

およそ圧倒的なアウェーの中、心身ともに万全を約束できない環境で、戦い続け勝ち続けた実績は柔道家という枠を超えて格闘家としても稀有な存在といえるでしょう。

最終的に落ち着いたブラジルでは、広くその技術を伝えグレイシー柔術をはじめとしたブラジリアン柔術の草創期に大きな影響を与えました。

6位 阿部謙四郎

イギリスに渡りBJC(イギリス柔道カウンシル)を設立、柔道の普及に尽くしました柔道家です。不動真徳流體術の中本和平に柔道を学びました。また柔道だけでなく合気道、剣道も高段位に昇り、他にも空手、弓道、柔剣道など様々な武道に通じていました。

阿部謙四郎の名が広く知られる理由が合気道とのかかわりです。ある日列車に乗っていると合気道の開祖植芝盛平と出会うことに。何のつもりか植芝は阿部に小指を突き出し「この指を折ってみろ」と言ったそうです。阿部は言われる通り小指を握ったが、その瞬間に合気の技で見事に床に組み伏せられてしまいました。そこから阿部は植芝盛平の弟子になったそうです。

その功成ってか、宮内省皇宮警察主催の柔道五段選抜試合では、木村政彦を破っています。史上最強の柔道家とも目される木村政彦ですが、その15年間不敗の記録に入る以前の黒星は、2歳年下の阿部によるものでした。

選手としての全盛期を軍隊生活に奪われたため、柔道家としての知名度はさほど高くはありませんが、もしも柔道家としての活動に専心していれば木村政彦が史上最強として名を残すことはなかったかもしれない。そんなことを思わせてならない人物です。

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7位 小川直也

柔道無差別級日本一を決める全日本柔道選手権での優勝7回(5連覇、2連覇)という成績は、山下泰裕に次いで突出した記録です。当時史上最年少(19歳と7ヶ月)で優勝するなどしました。オリンピックでは惜しくも銀メダルとなっています。

引退後はプロレスラーおよび総合格闘家に転身。多くの試合に勝利しその格闘センスの高さを証明しました。暴走王とも呼ばれたそのキャラクターで大いに人気を博し、柔道家出身では坂口征二に次ぐほどの成功を果した選手といえるでしょう。

柔道競技という範囲で見ると他の最強候補から1歩2歩譲る印象ですが、もしも「なんでもあり」ルールや喧嘩や果し合いのようなイメージでとらえれば、その格闘センスと意外性からもしやと思わせてくれる人物といえます。

8位 岡野功

今の時代では特に知名度が低い人物かもしれません。しかしその実力は一級品です。柔道無差別級日本一を決める全日本柔道選手権で、中量級(80kg級)ながら優勝2回、準優勝1回という信じられない実績を果しています。同大会の歴代優勝者で最軽量、他に80kg級ながら優勝したのは関根忍の1回があるだけです。偉業といえるでしょう。

パウンド・フォー・パウンド(もしも階級が一緒であれば)などといった仮定の話ではなく、事実階級差を無視して最強の座に昇り詰めた選手であり、柔よく剛を制す、柔道のロマンを実現してしまった人物でした。

9位 野村忠宏

軽量級(60kg級)であるため、実質的な最強論争には加わりにくい人物ですが、例えばボクシングのパウンド・フォー・パウンドのように、もしも階級が一緒だとしたら?という仮定の話をすれば、間違いなく最強候補の一人といえるでしょう。

’96年アトランタ、’00年シドニー、’04年アテネと五輪三連覇の実績は並外れています。柔道界では唯一の偉業であり、他の格闘競技と比較しても4連覇が1人、3連覇も野村を含め4人という極めて果たし難い業績といえるでしょう。選考会もあることから、およそ10年は世界のトップの実力を維持し続けなければならないことでしょう。その高い平均値のピークとは、もはや入神の域といえるのかもしれません。

10位 西郷四郎

講道館四天王の一人。はじめ天神真楊流柔術を学び、その後嘉納治五郎に見いだされ講道館柔道の黎明期を支えました。

五尺一寸(約153cm)の小さな体で階級制のない時代に活躍し、まさに柔よく剛を制すを体現した人物でした。他に使い手の少ない「山嵐」を得意技とするなど、個性的な存在感も相まって柔道界の最初のスター的人物でした。小説『姿三四郎』のモデルといわれ、その後の軽量級のスター選手を〇〇の三四郎(昭和、平成の三四郎古賀稔彦や平成の三四郎野村忠宏)と呼び習わすことの元となった存在です。

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