息子と接するとき大切にしている10のこと

4歳と1歳の男児を育てる41歳の父親の経験知の共有というか戯言というか。

なお、ちなみにここに書かれていることは、別に幼児教育の専門家でもなければ天才少年の父親でもない、どこにでもいる普通の父親の子育て論です。大した話ではありません。でも、だからこそ一般に共有する価値があるかなとも思います。なにか少しでも子育てのヒントになれば幸いです。

素材出典:Marius Mangevicius によるPixabayからの画像

基本的に大人と同じだと思い接する

子どものことですから、運動能力や知能、感情の抑制などの部分では未熟であることを当然配慮すべきでしょう。
しかし、根本的に違う生き物であるかのような接し方はすべきではないと考えています。
いわゆる子供らしさ、純粋さに頼ってはいけないといってもいいでしょう。

つまりは、子供だって馬鹿にされたら恨みを持つし、失敗したら傷つくし、得がないことには動かないし、気分がいいときもあれば悪い時もあるし、楽しくないことはやりたくないでしょう。
なぜ子供は違うと思えるのでしょうか?

人の言うことになんの疑問も持たず、無批判に無目的に絶対的に正しいと信じ切って、純粋に(というかロボットや奴隷のよう)に動くはずがないし、そんな人格が果たして良い人格といえるでしょうか?

また、気になるものが周りにありすぎる環境で静かに食事をするなど、大人にだって難しいことです。気分が乗らなければ食事が進まないこともあるし、そもそも苦手な味の1つや2つは当然あるものでしょう。プライベートな空間では気を抜いてだらしない姿をさらしがちです。

コミュニケーションが上手くいかないとき、常に「今自分が息子に言いつけていることは、今の自分はできるだろうか?大人にも難しい理想的に過ぎる人格や精神性を強要していないだろうか?」といったことを意識するようにしています。

難しすぎることはさせない(ようにしむける)

自信と自己肯定感を育むために、成功体験が積み重なっていくように意識しています。
学習でもお手伝いでも遊びでもなんでもそうですが、年齢的または性格や性質的にちょっと無理そうな場合は、他の手段を提案したり意識が向くように仕向けています。

難しいことを諦めずにやり続けるという姿勢も美徳的ではありますが、基本的に子供は単純な好奇心で何かを始めることが多いでしょう。別に重大な意識や目標があるわけではないので、失敗を乗り越え続けるのは非常に難しいと思います。
また、それをサポートする側としても愛情から熱くなり叱ったり余計な手助けをしたりと、結局なんのためにやっているのか分からなくなりがちです。

他にも、同じようなことですが、小さな成功や小さな努力も気づいて拾って褒めるということも意識しています。
そうすることで、トライしていること全体的にはまだまだ上手くいかなくても、ここまではできた!努力が報われた!がんばったことでハッピーになれた!と思えることは大切なことだと思います。

そしてまた、その成功や努力を、パートナーに言い付けたり身近な大人に言い触らすことも。
それはきっと周囲の期待を意識させ、自分自身を信じる力を育んでくれると考えています。

約束を守ることはとても難しいこと

言い付けを破ったりマナーを犯すことも約束を破ったことになるかもしれません。そんな子どもが約束を守れなかったとしても、それはとても難しいことがやっぱりできなかっただけで問題はないと思うようにしています。

約束を守るということはとても難しいことだと思います。
なにしろ、子供には自分で予定を立てる権限もないのが普通なのですから。

そもそも約束を守るということは、自分自身に約束を果たすための能力が足りているかの判断力が必要です。そして、自分が他にやらなければいけない予定との折り合いをつけるための記憶力なども要求されます。場合によっては、優先順位をつけ、いくらかの約束は反故にしつつも最も重要な約束たちは果たすことで、全体的に評価されるような計算能力も必要でしょう。

約束を結ぶといいながら、実は一方的な要求であったりすることがほとんどだったりします。
子供にとって詐欺のようなもので、それで怒られるのですからもはや悪夢です。

子どもが約束を守れなくても、それは親に責任があることが多いということをよく思い知り、けして強くしかるようなことは避けたいと考えています。

恐怖や羞恥によって行動を強制しないように

どんな分野に長じる人達のほとんどは、三度の飯よりそのことが好きで好きでたまらない、寝る間も惜しんで、努力を努力と思わないような人たちが多いと思います。

そうであれば、礼儀作法にしろ勉強にしろスポーツにしろ、とにかく先ずは好きになるように仕向けることが大切ではないでしょうか。
楽しい雰囲気の中で、それをやればやるほどハッピーになるという流れが大切だと思っています。

もちろん、勉強をしないことを怒って勉強をしたら褒めるというのは違うと思います。

良いことも悪いこともほとんど自分のマネをされているのだと自覚する

子どもの言葉遣いが悪かったり、暴力的な行動を起こしたり、言うことを聞かなかったり、問題行動が目に付くことがあります。
その際に思うようにしているのは「これは自分のマネかもしれない。自分が普段から無意識にこういう行動をしているのかも。」ということです。

車を運転しているとき危険な割り込みをされたとき、夫婦で意見が対立したとき、下品な言葉使いをしてないでしょうか?

子どもの問題行動が見えたときにすべきことは、自分と配偶者をはじめとした身近な大人に原因がないかを探り、それを矯正したうえで、時間をかけてその矯正した姿を見てもらうことだと思います。

まぁそもそもそんな上等な人物でもない自分の子なんだからしかたないか!というあきらめというか気楽さも大切だとは思います。

それは本当に悪いことなのかを考える

例えば食事においては、好き嫌いがある、食事に集中しない、残してしまう、といったこと。
生活態度においては、嘘をつく、いうことを聞かない、暴力的な行動に訴える、といったこと。

果たしてそれらは本当に悪いことなのでしょうか?

例えば外国人が生まれて初めての日本食に慣れるまで何年も要することは、何も不思議ではないでしょう。もし自分が聞いたこともないような国に飛ばされて、初めて出会う刺激的な味に戸惑うことは想像に難くないでしょう。それらは悪徳なのでしょうか?

嘘の定義にもよりますが、誰でも日に200回は嘘をつくなどといった研究もあるそうです。そして、意思のある人間が、自分の考えを押し通すために人の言うことを聞かないというのは、当然のことのように感じます。また、暴力がない社会を形成した方がより生産的なので、それを防ぐための教えと刑罰があるということを知らないことが、果たして悪いことなのでしょうか?

日本の社会が要求するからこそ、そうしなければならないのであれば、それを丁寧に説明いし理解してもらわなければ上手く適応してくれるはずがないと思います。
そしてまた、モラルや徳目とは時代によって非常に大きく変化してしまうことを、我々大人は痛いほど見せつけられているはずなので、人間として、地球人として正しいのかということも合わせて問い続けるべきだと思います。

なんでも1度で出来るはずがない

幼児というのは大人に比べて運動能力と知能が劣るというのは、当然のことであり誰でも知っていることです。
だからこそ、親は丁寧に言葉を教え、たった一歩を歩けただけでもオリンピックで金メダルを取ったかのように喝さいを浴びせ、よれよれのかろうじて「あ」と思しき線の集合が文字となるまで1度も叱りつけることなく教えてあげるはずです。

それなのになぜ感情のコントロールや記憶に関しては大人と同じものを要求するのでしょうか?
おうちに帰ったら先ずは手洗いうがい、いただきますごちそうさま、初対面の人への勇気、食事、などなど。

何度言っても言うことが聞けないのは、運動能力と同じように感情をコントロールする力が未熟なだけであり、計算能力が未発達なように記憶と論理的思考と整理が未発達なだけなんだと思います。
なにも我が子の不甲斐なさを嘆く必要なんてないし、まして悪意なんてあろうはずがありません。

毎日のように抱きしめて目を見て真っすぐに愛情を伝える

なによりも愛情があってのこと。
子育ての知識が足りず、親としての自制が備わらず、仕事や周辺の外的環境によって心が乱されることで、きっと必ず毎日のように失敗するものだと思います。

自己嫌悪を覚えることでしょうし、なによりも子供への悪影響を心配するでしょう。しかしそれも愛情があればきっとわかってくれるはずです。
つい恐怖や羞恥を使ってしまったとき、ちょっとした事故を起こしたとき、何気ない裏切りをしてしまったとき、大人でもその人との関係を疑ってしまうことでしょう。なぜ子供が疑わないといえるでしょうか。

そんな失敗も毎日のようにあるけれど、だからこそ毎日のように私はあなたのこと愛しているんだと伝えなければいけないはずです。

親と子はそもそも初対面の他人のようなものだと思います。特に生命の誕生の神秘を知らない子供にとっては。
ゼロベースの信頼関係から、恋人よりも親密な関係性を気づかなければいけないのですから、それはもう毎日アピールが必要ではないでしょうか。

上記すべてのことをいつも完璧にやるのは無理だとあきらめる

どんな挑戦においてもありがちな最大の敵は完璧主義であったりします。
一生懸命であればあるほど、子供を叱りつけ自らを責める負の連鎖を生み続けるようです。

どんなこともそうですが、何か目標を立て理想を描いたときに、それを100%実現することなんて不可能ですよね。できたら人間じゃない。
歩くことすら失敗し、昨日のことすら忘れてしまう愚かな人間に、完璧などできるはずがないんですから。

ときに我が子に無理難題を押し付け、何度教えてもそれができないことを怒り、その日愛情を忘れてしまうようなことがあっても、それは当たり前のことで何も問題ないんだと思わなければならないでしょう。

親は親として強くあらなければならないでしょうが、それはつまり適当であるということなのではないかと思います。

健康で無事生まれてきてくれただけで十分に幸せだったことを思い出す

世の中には残念ながら生まれてこれない子もいれば、生まれて間もなく天に召される子もいます。親としての事前準備をすればするほど不安も膨らみ、ただただ無事生まれてくることだけを祈ったものではないでしょうか。

無事健康に生まれ、そして大きな病気をすることもなく今日まで元気に生きてくれた、それだけでもう本当は十分なはずです。
その大きさに比べれば親がしてきたこと、親ができることなどたかが知れていて、この子の幸せを自分のちっぽけな了見で定義することすらおこがましく感じたりもします。

親ができることなんて、実はただ親としてそこにあるだけ、子供が一時寄り添う止まり木のような存在にすぎないのかもしれません。

できる限り良さげなサポートはするけれど、それができなくても構わないし、そもそもそれがその子の幸せに直結するとは限らない。そう思えればいいのかなと思っています。

最期に

以上のようなことを意識しながら、試行錯誤、育児本やサイトなど様々な情報を頼りに日々頑張っています。
なんとか今のところ普通に育ってくれているような気がしていますので、いちおう報告として付しておきます。