ハンディキャップを乗り越えた偉大なスポーツ選手たち

GREAT ATHLETES

この記事は、ハンディキャップを抱えながらもプロのスポーツ選手となり活躍し偉大な成績を残した人物についてまとめたものです。

世の中には先天的または後天的に障害を抱えて生活をしている人々が多く存在しています。通常の生活においても障害による負担は大きく、日常のところどころに不便を感じることが多いことでしょう。それがスポーツともなると決定的に成しえない動作があることで、そのプレーを断念しなければならないこともあるはずです。せっかくプロ選手となれても、けがや病気などを原因として、そのために選手生活の幕を閉じるというのもよく聞く話です。

障害がプロを辞める原因となるのであれば、障害がプロを目指すことを諦める原因となるはずと考えるのも自然なことかもしれません。しかしながら実際にはそうは思うことなく果敢にも(見る人によっては無謀にも)プロに挑戦し、その夢をかなえた人物たちがたしかに存在するのです。

現代であればパラアスリートとして活躍するという道もあるかもしれませんが、ここで紹介する選手たちの時代は、そういった土壌はまったく形成されていませんでした。

彼らは世間一般に障害とみなされるものは実は障害ではない、ということを思わせてくれます。

我々もまた見えずらく気づかない障害をおそらく抱えているでしょう。鋭い反射神経を持たず、巨大な力を生まない筋肉は果たして健常なのでしょうか?運動機能のレベルのどこに線引きをすることが妥当なのでしょうか?それともそもそも必要なのでしょうか?

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張本勲(プロ野球)

通算安打の日本記録保持者(3085本)であり、日本プロ野球史上唯一の500本塁打300盗塁達成者です。歴代の名選手の中でも極めて偉大な成績を残した伝説的なスラッガーです。いったいどれほどの才能と運と肉体に恵まれれば、このような夢のような成績を残すことができるのでしょうか。

しかしながら驚くことに彼は「肉体」ということにおいて恵まれた存在ではありませんでした。もちろん180cmを超える大柄な体格と強靭な足腰、しなやかで強力な筋肉や鋭い動体視力があったことは間違いありません。ただ彼は惜しいことにバッターとして命ともいえるバットを持つその右手が、満足な機能を持っていなかったのです。幼少期に負った大火傷が原因で、右手の親指・人差し指は完全に伸びず、薬指と小指は癒着したままでした。

それでも彼は野球を辞めることもなく、プロになることすら諦めず、ついにはその中で大記録を達成していきました。それは才能や運や右手以外の肉体に対する神の恵みによるものではなかったのでしょう。それ以上の不屈の精神のなせる業だったのかもしれません。

双葉山定次(大相撲)

格闘技において視力を失うということはどれほど致命的なことでしょうか。死角からの攻撃は無防備な形で受けることとなり、まさに命を失いかねないアドバンテージといえるでしょう。

双葉山定次は、5歳の時に右目を吹き矢によって負傷し半失明状態になりました。静的な日常活動にも支障をきたすような障害は、まして運動行為に至っては以降それを行うことを諦めなければならないような事態といえるでしょう。

それでも彼にはそれを補って余りある膂力があったし、天性のバランスと勝負における知性がありました。なにより彼は相撲が大好きだったし、相撲も彼を愛したといえるのかもしれません。

好きな道にひたむきに突き進んだ彼は、長じて大相撲の土俵に至ることができました。もはや十分に驚くべき物語ですが、それだけでは彼の闘争心を鎮めることは足りませんでした。彼はその致命的なハンデを隠しながら、闘いに闘い続け、それに勝ちに勝ち続けました。片目が見えないことなど誰にも感じさせず、気づけば史上最多、空前にして絶後の69連勝という大記録まで達成してしまったのです。

相撲を取れることすら不思議で、プロになれたことが奇跡のようなことなのに、結局彼は大相撲の最高位横綱にまで上り詰めたし、その長い歴史の中でも70人ほどしかいない横綱の中で最強候補の一人ともされるまでになってしまいました。

ガリンシャ(サッカー)

とある貧しい家庭に育った少年は、6歳の時にポリオ(俗に小児麻痺)にかかり、一命はとりとめたものの後遺症により軽度の知的障害と背骨の湾曲、さらには両足も湾曲し左右で長さが異なってしまいました。

子供の多くは活動的なもので、彼もまた運動を好んだわけだけれども皮肉なことに足に障害を持つ彼が最も好んだのはフットボールでした。

サッカーファンでも彼の名を知らない人は意外と多いので、今この文章を読んでいる人は、彼の物語の結末を「どこかのプロチームのエースとなった」だとか「ある国の代表に選ばれ決定的な仕事をした」程度(とてつもないことだが)に想像しているかもしれません。

もちろん彼はプロになったし、それは国内でも一流のチームだったし、その国は王国ブラジルで、代表にも選ばれました。

神様ペレはブラジルに3度のワールドカップをもたらしたけれども、そのうちの62年のW杯は途中負傷したことで戦線から離脱したため、このW杯を実質ブラジルにもたらしたのはガリンシャでした。

足に障害を抱えた彼は、もっとも足を巧みに使わなければならないスポーツを選び、その中で彼が最も得意としたプレースタイルはドリブルでした。不思議なことに、誰よりもお粗末なボール運びをするはずの彼のドリブルを、実際は誰も止めることができませんでした。少年時代のストリートサッカーにおいても、クラブチームの試合でも、ワールドカップの決勝においてもです。

彼のすさまじさ、そして偉大さを語りつくすことは難しいものがあります。彼の足跡をいくらつづっても、現代のサッカーとは何もかもが違い過ぎて、いまいちピンとこないかもしれません。彼の偉大さを知るために最も簡単な方法がひとつだけあります。当時を知るブラジルのオールドファンに「世界最高の右ウイングは?」「史上最高のドリブラーは?」などといった質問をしてみるといいでしょう。他の国、他の時代では大きく意見が分かれる質問ですが、1962年を知る世代の口からはたったひとつの名前しか出てこないことでしょう。

マグジー・ボーグス(NBA・バスケットボール)

バスケットボールとバレーボールは、一般的な考えからすると高身長の人々にのみプレーを許されたスポーツという印象があります。もちろん低身長の人物がプレーすることに問題はないし、法律に触れるわけでもありませんが、しかし実際にプレーしてみればそこに市民権を感じることはできないでしょう。

バレーボールならリベロという職業がありまだ少しはマシなのかもしれませんが、バスケットボールにおいては、どれだけそのスポーツを好きであっても早々に見切りをつけるのが賢明であるかのように感じてしまいます。

しかしバスケットのプロリーグであるNBA歴史には、そんな「賢明」な判断をしなかった愚か者がいた記録が残っています。彼の名前はマグジー・ボーグス。身長はたったの160cmでした。ちなみにこれは国際的に小柄とされる日本人のしかも女性の平均身長(158cm)とほぼ同じです。

1990年代当時のNBAでプレーする選手らの平均身長は201cmで、最高身長選手はマヌート・ボルの231cmでした。ボーグスとの身長差は実に71cmにも達します。

もしかしたら彼は話題作りのために入団させられたのではないだろうか?そう想像する人もいるでしょう。とりあえずプロになれたがもう翌年にはお払い箱になったのではないかと考える人もいるかもしれません。しかしながら彼はNBAで14シーズンも現役を続けました。プロスポーツの世界において現役を続けられるというだけでもいかにすごいことか、スポーツファンであれば即座に理解できることでしょう。

そしてまた、彼が現役時に在籍した5チームの中でも最も長く在籍したシャーロット・ホーネッツのチームでの記録を掲載しておきます。

  • 通算得点:チーム歴代6位(5,531点)
  • 通算アシスト:チーム歴代1位(5,557点)
  • 通算スティール:チーム歴代1位(1,067回)
  • 出場試合:チーム歴代2位(632試合)

つまり彼はチームの主役であり、そして伝説とまでなったのです。

ジム・アボット(メジャーリーグベースボール)

ジム・アボットは生まれつき右手から先がありませんでした。しかし彼はそんなこと自体がなかったかのように、スポーツ(アメフトと野球)を楽しむことを選び、それぞれの花形ポジション(クォーターバックとピッチャー)をつかみ取ることを目指し、実際にそのポジションで大いに活躍して見せました。

特に野球においての活躍は甚だしく、オリンピックの決勝のマウンドに立つまでに至り、そこで9回を投げ切りアメリカに金メダルをもたらしたのです。

いったい障害とはなんなのだろうか?彼の活躍と存在は、スポーツの楽しみを与えるだけでなく人間が偶々形成しなんとなくそれが正しいと思ってきたイメージを、改めて考えさせるきっかけを与えてくれるようでした。

たとえ世間一般には障害者とみなされ、運動能力が劣ると思われてしまう個性を持っていたとしても、しかしオリンピックの優勝投手という肩書は、誰もなしえない実力の証明を見せつけました。

慈善活動や話題作りのために、ではなく、まさにチームの救世主となることを期待されてプロスポーツの世界に入団したのです。もちろん彼は史上最高のピッチャーとはならなかったし、結局野球の殿堂入りするほどの伝説的偉業を果たすことはできませんでしたが、それは彼の才能や運や様々な要因がもたらした結果であり、他の野球選手がそれぞれの記録を残して引退するのと同じで、その右手とは何も関係ない物でした。

普通に野球を愛し、普通にプロを目指し、普通にメジャーで活躍(ノーヒットノーランも達成!)し、普通に引退した彼を、ファンは誰も障害者であるとは見なかったことでしょう。

もちろん彼自身は最初から障害者などとは思っていなかったことは、容易にうかがい知れます。それは彼の両親がもたらした精神だったようです。

「自分が障害者だとは思ったことはない。子供の時自分に野球を教えようとして庭に連れ出した父こそ勇気のある人間だ」

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