日本史最強剣術家の伝説力ランキングTop15

この記事は日本史上における著名な剣術家の伝説をもとに、最強に近い人物は誰かをランキング形式でまとめたものです。

日本史の特徴的な、そして魅力的な文化の一つとしてサムライという存在があります。上は武将から下は足軽まで様々なタイプがあるわけですが、やはり武将などといったものより(軍事指導者は世界中にいる)もユニークな存在として両手剣の技術を日本的職人的精神で突き詰めていった剣豪や剣術家といった存在ではないでしょうか。

もちろん世界の各地に剣や刀は存在しますが、その扱いを極め洗練させていった国と言うと非常に少ないでしょう。しかもこれほどに長い歴史を持ち、またバラエティーに富んだ国と言うと日本ぐらいしかないかもしれません。

そんな剣の国における長い歴史には、また強く魅力的な剣豪・剣術家が綺羅星のごとく存在します。この記事は、そんなユニークで魅力的な剣術家の中でも史上最強の人物とはいったい誰なのか?という素朴な疑問を、今に伝わる伝説のインパクトから考えランキングにしたものです。

もちろん本当の強さというのは実際に戦ってみなければわかりませんし、そのときどきの状況や体調などによっても変わってくるものでしょう。100戦して100戦同じ結果になるはずもなく。しかしながらそんなことはもちろん不可能なわけですから、伝説からうかがい知れる、強さの残り香をかぎ分けて判断しようという試みになります。

逆に言えば最も怪しさがなく好印象で総合的にインパクトが強い剣術家は誰なのか、というランキングであるともいえるでしょう。そういった観点から、なるほどこういった観点もあるのかと気楽に楽しんでいただければと思います。

Image by Miguel Á. Padriñán on Pixabay

最強剣術家ランキングTop15

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15位 飯篠長威斎家直

天真正伝香取神道流の開祖。香取神宮と鹿島神宮に伝わる古流兵法を体系化し、今につながる武道の原型を作り上げました。「日本兵法中興の祖」として日本武道史において非常に重要な人物です。

14位 榊原鍵吉

華々しい真剣勝負の逸話や驚くような達人然とした伝聞というのはありませんが、幕末の剣聖男谷精一郎に学び、講武所剣術師範役を勤めるなどその術理は確かです。天覧兜割りを成功させた剛腕も知られるところです。戦国期のような真剣勝負をもって実力を証明できない幕末期において、最強をにおわせる十分な武威を示した数少ない人物といえるでしょう。最後の剣客とも称されます。

13位 愛州移香斎久忠

陰流の開祖。剣聖・上泉伊勢守の師であったともいわれます。剣聖を生んだ兵法ということで、たしかに合理的で精妙な剣であったのでしょう。そんな技術を生める才能、そこから推察できる実力も抜きんでたものがあったはずです。しかしながら、信憑性のある際立った事績や伝説が少なく、伝説力として最強を争うのは難しい位置となるのも仕方ないでしょう。

12位 丸目長恵

タイ捨流の開祖。尚武の気風の強い九州という土地柄で認められた点は評価に値するでしょうが、所詮は田舎でのこと。天下第一の武芸者として同じ舞台に立てるかというとやや格が下がると言わざるを得ません。上泉伊勢守の高弟であるも、新陰流は目録止まりというのも印象を下げざるを得ません。

11位 柳生石舟斎宗厳

ビッグネームではありますが、上泉伊勢守に挑みながらその弟子の疋田文五郎に手も足も出なかったお山の大将という印象がぬぐえません。そこから新陰流を学び大いに上達したと思われるも兄弟子や師匠を超えたような逸話は見当たりません。

10位 寺田五郎右衛門

天真一刀流の祖。高柳又四郎、白井亨とともに「中西道場の三羽烏」と呼ばれ、その中でも筆頭と目されました。日本史において幕末、剣術が再び隆盛のピークを迎えるその直前の時代の人物で、まだ竹刀稽古が広まる前の組太刀稽古を行っていた古典剣法のラストサムライというべき人物です。

門弟に白井亨、千葉周作や、また師匠筋ながら中西子正もいます。

9位 疋田文五郎

知名度と師匠の存在があるために、最強争いから早々に脱落してしまうものの、しかしながら仮に師匠の上泉伊勢守が1位であるならば、彼こそが2番手の実力者であったかもしれません。

上泉伊勢守の高弟中の高弟であり、一説には柳生石舟斎が手も足も出ないほどに、二段も三段も実力が違ったと伝えられます。

8位 男谷精一郎

多士済済、綺羅、星のごとく剣豪の溢れ出た幕末において、ただ一人「剣聖」と呼ばれた人物。真剣勝負の話はないものの、道場仕合において名だたる名剣士を相手にしては、ついぞ完全な形で負けることを知りませんでした。

人格者としての面もあり、三本勝負では相手に花を持たせるために必ず一本は取らせたとのこと。それはつまりそれほどの余裕を持てるほどに突出した力量を持っていたというエピソードでもあるでしょう。

7位 東郷重位

島津家剣術指南役。示現流の開祖。
尚武の家風苛烈な家中においての剣術指南役就任は、真に実力を認められてのものと思わせます。当時九州ではタイ捨流が隆盛しており、島津家の先任の指南役もタイ捨流の人物でした。それを打ち破っての入れ替わりは、空席であった指南役を手にするケースが多い他の剣豪のエピソードと比べて大いに最強説を裏打ちするものです。
超実践的な先手必勝の精神、一撃にかける超攻撃的剣術は、幕末の動乱や西南戦争でその威力を証明しています。それはすなわち重位の剣理の確かさの証明であり、つまりは重位の強さの証明でもあるでしょう。

6位 宮本武蔵

『五輪書』には13歳で初めて新当流の有馬喜兵衛と決闘し勝利し、以来29歳までに60余回の勝負すべてに勝利したとされています。史上最も有名な剣豪であり、伊勢守や卜伝を知らない日本人はいても、武蔵を知らない日本人はいるだろうか?というほどの圧倒的な知名度と人気を誇ります。

抜群の実践成績を持ちますが、自己申告によるものが多いところが信憑性に欠け逆に評価を落としている印象もあります。同時代その前後の卜伝、伊勢守、一刀斎、忠明、但馬守らと何らかかわりがなかったところも疑問を覚えます。最終的に大藩とはいえ九州の田舎で禄を得る程度の評価であったことと、目立った後進を育てられなかったことも印象を悪くしているでしょうか。

5位 小野次郎右衛門忠明(神子上典膳)

最強を語られる剣豪の中で、実力実績ともに十分でありながら最も影が薄い印象の人物です。しかしながら師は超実践派の剣鬼伊東一刀斎であり、師から受け継いだ実力を持って徳川家の剣術指南役に上り詰めた人物です。確かな師系と最上の肩書は史上最強の剣豪とみなされても不思議ではありません。

明確な統一戦やマッチメイクが行われたわけではないですが、剣術文化が最高潮に盛り上がりひとつの完成を見た江戸初期という時代において、最高のポストに到達したという事実は、最強論争においてあまりにも決定的です。

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4位 上泉伊勢守

新陰流の開祖。剣聖の誉れ高く、史上最強の剣豪の一人として名が挙がる人物。弟子に疋田文五郎、丸目長恵など名人達人が多く、柳生新陰流を開いた柳生石舟斎までもが門下にいます。

3位 柳生但馬守宗矩

移香斎、伊勢守、石舟斎と練り上げてきた兵法の結実であり、剣禅一致、活人剣、無刀取りの境地に至ったといわれます。将軍家指南役は世襲的、政治的な結果であるともいえますが、まだまだ文治の風が吹き及ばない時代においてその地位を守り続けたことは、やはり圧倒的な実力があったものと思われます。

剣理に長け、その思想は後世に大きな影響を与えるとともに、当時においても柳生新陰流を最大級の流派に成長させました。

2位 伊東一刀斎

剣術界の大流派、一刀流の開祖。賊を瓶ごと斬った瓶割刀など、豪快な逸話も。33戦無敗。鬼夜叉の異名も持つ超実践派の剣豪です。一刀流の実質的な開祖であり、のちに徳川剣術指南役まで上り詰めた小野忠明を弟子として持ちます。いわばプレイヤーとしても超一流でありながらコーチとしても超一流であった剣豪といえるでしょう。

1位 塚原卜伝

17才で真剣試合を勝利し、その後19度の仕合、37度の合戦、他にも数百の木刀打ち合いにおいても刀傷などは一度もなく、矢傷をわずかに6回と、超人的な結果を残しています。鹿島古流(鹿島中古流)と天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開きました。天下の将軍足利義輝や超名門大名である北畠具教なども卜伝の弟子となっています。それだけ当時からその剣名は天下に知れ渡っていたのでしょう。

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