この記事では、現代短歌PD文庫の一つとして斎藤茂吉の歌集『赤光』(初版本)の全文をHTMLで提供するものです。
底本情報
以下は本テキストの底本となった書籍の情報です。
- 底本:国立国会図書館デジタルコレクション 907229
- タイトル:赤光
- 著者:斎藤茂吉(1953年没 > 2004年公有化)
- 出版社:東雲堂書店
- 出版年月日:1913年(大正2年)
『赤光』
斎藤茂吉著
赤光
(アララギ叢書第二編)
東京 東雲堂発行
大正二年 (七月迄)
1 悲報来
ひた走るわが道くらししんしんと堪へかねたるわが道くらし
ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道くらし
すべなきか蛍をころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし
氷室より氷をいだす幾人はわが走る時ものを云はざりしかも
氷きるをとこの口のたばこの火赤かりければ見て走りたり
死にせれば人は居ぬかなと歎かひて眠り薬をのみて寝んとす
赤彦と赤彦が妻吾に寝よと蚤とり粉を呉れにけらずや
罌粟はたの向うに湖の光りたる信濃のくにに目ざめけるかも
諏訪のうみに遠白く立つ流波つばらつばらに見んと思へや
あかあかと朝焼けにけりひんがしの山並の天朝焼けにけり
七月三十日信濃上諏訪に滞在し、一湯浴びて寝ようと湯壺に浸つてゐた時、左千夫先生死んだといふ電報を受取つた。予は直ちに高木なる島木赤彦宅へ走る。夜は十二時を過ぎてゐた。
2 屋上の石
あしびきの山の狭をゆくみづのをりをり白くたぎちけるかも
しら玉の憂のをんな恋ひたづね幾やま越えて来りけらしも
鳳仙花城あとに散り散りたまる夕かたまけて忍び逢ひたれ
天そそる山のまほらに夕よどむ光りのなかに抱きけるかも
屋上の石は冷めたしみすずかる信濃のくにに我は来にけり
屋根の上に尻尾動かす鳥来りしばらく居つつ去りにけるかも
屋根踏みて居ればかなしもすぐ下の店に卵を数へゐる見ゆ
屋根にゐて微けき憂湧きにけり目したの街のなりはひの見ゆ (七月作)
3 七月二十三日
めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人は過ぎ行きにけり
夏休日われももらひて十日まり汗をながしてなまけてゐたり
たたかひは上海に起り居たりけり鳳仙花紅く散りゐたりけり
十日なまけけふ来て見れば受持の狂人ひとり死に行きて居し
鳳仙花かたまりて散るひるさがりつくづくとわれ帰りけるかも (七月作)
4 麦奴
しみじみと汗ふきにけり監獄のあかき煉瓦にさみだれは降り
雨空に煙上りて久しかりこれやこの日の午時ちかみかも
飯かしぐ煙ならむと鉛筆の秀を研ぎて居て煙を見るも
病監の窓の下びに紫陽花が咲き、折をり風は吹き行きにけり
ひた赤し煉瓦の塀はひた赤し女刺しし男に物いひ居れば
監房より今しがた来し囚人はわがまへにゐてやや笑めるかも
巻尺を囚人のあたまに当て居りて風吹き来しに外面を見たり
ほほけたる囚人の眼のやや光り女を云ふかも刺しし女を
相群れてべにがら色の囚人は往きにけるかも入り日赤けば
まはりみち畑にのぼればくろぐろと麦奴は棄てられにけり
光もて囚人の瞳てらしたりこの囚人を観ざるべからず
けふの日は何も答へず板の上に瞳を落すこの男はや
紺いろの囚人の群笠かむり草苅るゆゑに光るその鎌
監獄に通ひ来しより幾日経し蜩啼きたり二つ啼きたり
よごれたる門札おきて急ぎたれ八尺入りつ日ゆららに紅し
微毒のひそみ流るる血液を彼の男より採りて持ちたり (七月作)
殺人未遂被告某の精神状態鑑定を命ぜられて某監獄に通ひ居たる時、折にふれて詠みすてたるものなり。
5 みなづき嵐
どんよりと空は曇りて居りたれば二たび空を見ざりけるかも
わが体にうつうつと汗にじみゐて今みな月の嵐ふきたれ
わがいのち芝居に似ると云はれたり云ひたるをとこ肥りゐるかも
みなづきの嵐のなかに顫ひつつ散るぬば玉の黒き花みゆ
狂院の煉瓦の角を見ゐしかばみなづきの嵐ふきゆきにけり
狂じや一人蚊帳よりいでてまぼしげに覆盆子食べたしといひにけらずや
ながながと廊下を来つついそがしき心湧きたりわれの心に
蚊帳のなかに蚊が二三疋ゐるらしき此寂しさを告げやらましを
ひもじさに百日を経たりこの心よるの女人を見るよりも悲し
日を吸ひてくろぐろと咲くダアリヤはわが目のもとに散らざりしかも
かなしさは日光のもとダアリヤの紅色ふかくくろぐろと咲く
うつうつと湿り重たくひさかたの天低くして動かざるかも
たたなはる曇りの下を狂人はわらひて行けり吾を離れて
ダアリヤは黒し笑ひて去りゆける狂人は終にかへり見ずけり (六月作)
6 死にたまふ母 其の一
ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひにつつしづ心なけれ
白ふぢの垂花ちればしみじみと今はその実の見えそめしかも
みちのくの母のいのちを一目見ん一目みんとぞいそぐなりけれ
うち日さす都の夜に灯はともりあかかりければいそぐなりけり
ははが目を一目を見んと急ぎたるわが額のへに汗いでにけり
灯あかき都をいでてゆく姿かりそめ旅とひと見るらんか
たまゆらに眠りしかなや走りたる汽車ぬちにして眠りしかなや
吾妻やまに雪かがやけばみちのくの我が母の国に汽車入りにけり
朝さむみ桑の木の葉に霜ふれど母にちかづく汽車走るなり
沼の上にかぎろふ青き光よりわれの愁の来むと云ふかや
上の山の停車場に下り若くしていまは鰥夫のおとうと見たり
其の二
はるばると薬をもちて来しわれを目守りたまへりわれは子なれば
寄り添へる吾を目守りて言ひたまふ何かいひたまふわれは子なれば
長押なる丹ぬりの槍に塵は見ゆ母の辺の我が朝目には見ゆ
山いづる太陽光を拝みたりをだまきの花咲きつづきたり
死に近き母に添寝のしんしんと遠田のかはづ天に聞ゆる
桑の香の青くただよふ朝明に堪へがたければ母呼びにけり
死に近き母が目に寄りをだまきの花咲きたりといひにけるかな
春なればひかり流れてうらがなし今は野のべに蟆子も生れしか
死に近き母が額を撫りつつ涙ながれて居たりけるかな
母が目をしまし離れ来て目守りたりあな悲しもよ蚕のねむり
我が母よ死にたまひゆく我が母よ我を生まし乳足らひし母よ
のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて足乳ねの母は死にたまふなり
いのちある人あつまりて我が母のいのち死行くを見たり死ゆくを
ひとり来て蚕のへやに立ちたれば我が寂しさは極まりにけり
其の三
楢わか葉照りひるがへるうつつなに山蚕は青く生れぬ山蚕は
日のひかり斑らに漏りてうら悲し山蚕は未だ小さかりけり
葬り道すかんぼの華ほほけつつ葬り道べに散りにけらずや
おきな草口あかく咲く野の道に光ながれて我ら行きつも
わが母を焼かねばならぬ火を持てり天つ空には見るものもなし
星のゐる夜ぞらのもとに赤赤とははそはの母は燃えゆきにけり
さ夜ふかく母を葬りの火を見ればただ赤くもぞ燃えにけるかも
はふり火を守りこよひは更けにけり今夜の天のいつくしきかも
火を守りてさ夜ふけぬれば弟は現身のうた歌ふかなしく
ひた心目守らんものかほの赤くのぼるけむりのその煙はや
灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり
蕗の葉に丁寧に集めし骨くづもみな骨瓶に入れ仕舞ひけり
うらうらと天に雲雀は啼きのぼり雪斑らなる山に雲ゐず
どくだみも薊の花も焼けゐたり人葬所の天明けぬれば
其の四
かぎろひの春なりければ木の芽みな吹き出る山べ行きゆくわれよ
ほのかにも通草の花の散りぬれば山鳩のこゑ現なるかな
山かげに雉子が啼きたり山かげの酸つぱき湯こそかなしかりけれ
酸の湯に身はすつぽりと浸りゐて空にかがやく光を見たり
ふるさとのわぎへの里にかへり来て白ふぢの花ひでて食ひけり
山かげに消のこる雪のかなしさに笹かき分けて急ぐなりけり
笹はらをただかき分けて行きゆけど母を尋ねんわれならなくに
火の山の麓にいづる酸の温泉に一夜ひたりてかなしみにけり
ほのかなる花の散りにし山のべを霞ながれて行きにけるはも
はるけくも狭のやまに燃ゆる火のくれなゐと我が母と悲しき
山腹に燃ゆる火なれば赤赤とけむりはうごくかなしかれども
たらの芽を摘みつつ行けり寂しさはわれよりほかのものとかはしる
寂しさに堪へて分け入る我が目には黒ぐろと通草の花ちりにけり
見はるかす山腹なだり咲きてゐる辛夷の花はほのかなるかも
蔵王山に斑ら雪かもかがやくと夕さりくれば岨ゆきにけり
しみじみと雨降りゐたり山のべの土赤くしてあはれなるかも
遠天を流らふ雲にたまきはる命は無しと云へばかなしき
やま峡に日はとつぷりと暮れたれば今は湯の香の深かりしかも
湯どころに二夜ねぶりて蓴菜を食へばさらさらに悲しみにけれ
山ゆゑに笹竹の子を食ひにけりははそはの母よははそはの母よ (五月作)
7 おひろ 其の一
なげかへばものみな暗しひんがしに出づる星さへ赤からなくに
とほくとほく行きたるならむ電灯を消せばぬば玉の夜もふけぬる
夜くればさ夜床に寝しかなしかる面わも今は無しも小床も
ふらふらとたどきも知らず浅草の丹ぬりの堂にわれは来にけり
あな悲し観音堂に癩者ゐてただひたすらに銭欲りにけり
浅草に来てうで卵買ひにけりひたさびしくてわが帰るなる
はつなつに触れし子なればわが心今は斑らに嘆きたるなれ
代々木野をひた走りたりさびしさに生きの命のこのさびしさに
さびしさびしいま西方にくるくるとあかく入る日もこよなく寂し
紙くづをさ庭に焚けばけむり立つ恋しきひとははるかなるかも
ほろほろとのぼるけむりの天にのぼり消え果つるかに我も消ぬかに
ひさかたの悲天のもとに泣きながらひと恋ひにけりいのちも細く
放り投げし風呂敷包ひろひ持ち抱きてゐたりさびしくてならぬ
ひつたりと抱きて悲しもひとならぬ瘋癩学の書のかなしも
うづ高く積みし書物に塵たまり見の悲しもよたどき知らねば
つとめなればけふも電車に乗りにけり悲しきひとは遥かなるかも
この朝け山椒の香のかよひ来てなげくこころに染みとほるなれ
其の二
ほのぼのと目を細くして抱かれし子は去りしより幾夜か経たる
うれひつつ去にし子ゆゑに藤のはな揺る光りさへ悲しきものを
しら玉の憂のをんな我に来り流るるがごと今は去りにし
かなしみの恋にひたりてゐたるとき白ふぢの花咲き垂りにけり
夕やみに風たちぬればほのぼのと躑躅の花はちりにけるかも
おもひ出は霜ふるたにに流れたるうす雲の如かなしきかなや
あさぼらけひと目見しゆゑしばだたくくろきまつげをあはれみにけり
わが生れし星を慕ひしくちびるの紅きをんなをあはれみにけり
しんしんと雪ふりし夜にその指のあな冷たよと言ひて寄りしか
狂院の煉瓦のうへに朝日子のあかきを見つつくち触りにけり
たまきはる命ひかりて触りたれば否とは言ひて消ぬがにも寄る
彼のいのち死去ぬと云はばなぐさまめ我の心は云ひがてぬかも
すり下す山葵おろしゆ滲みいでて垂る青みづのかなしかりけり
啼くこゑは悲しけれども夕鳥は木に眠るなりわれは寝なくに
其の三
愁へつつ去にし子のゆゑ遠山にもゆる火ほどの我がこころかな
あはれなる女の瞼恋ひ撫でてその夜ほとほとわれは死にけり
このこころ葬らんとして来りぬれ畑には麦は赤らみにけり
夏されば農園に来て心ぐし水すましをばつかまへにけり
麦の穂に光ながれてたゆたへば向うに山羊は啼きそめにけれ
藻のなかに潜むゐもりの赤き腹はつか見そめてうつつともなし
この心葬り果てんと秀の光る錐を畳にさしにけるかも
わらじ虫たたみの上に出で来しに烟草のけむりかけて我居り
念々にをんなを思ふわれなれど今夜もおそく朱の墨するも
この雨はさみだれならむ昨日よりわがさ庭べに降りてゐるかも
つつましく一人し居れば狂院のあかき煉瓦に雨のふる見ゆ
瑠璃いろにこもりて円き草の実はわが恋人のまなこなりけり
ひんがしに星いづる時汝が見なばその眼ほのぼのとかなしくあれよ (五月六日作)
8 きさらぎの日
きやう院を早くまかりてひさびさに街を歩めばひかり目に染む
平凡に涙をおとす耶蘇兵士あかき下衣を着たりけるかも
きさらぎの天のひかりに飛行船ニコライでらの上を走れり
杵あまた並べばかなし一様につぼの白米に落ち居たりけり
杵あまた馬のかうべの形せりつぼの白米に落ちにけるかも
もろともに天を見上げし耶蘇士官あかき下衣を着たりけるかも
きさらぎの市路を来つつほのぼのと紅き下衣の悲しかるかも
救世軍のをとこ兵士はくれなゐの下衣着たれば何とすべけむ
まぼしげに空に見入りし女あり黄色のふね天馳せゆけば
二月ぞら黄いろき船が飛びたればしみじみとをんなに口触るかなや
この身はも何か知らねどいとほしく夜おそくゐて爪きりにけり (二月作)
9 口ぶえ
このやうに何に頬骨たかきかや触りて見ればをんななれども
この夜をわれと寝る子のいやしさのゆゑ知らねども何か悲しき
目をあけてしぬのめごろと思ほえばのびのびと足をのばすなりけり
ひんがしはあけぼのならむほそほそと口笛ふきて行く童子あり
あかねさす朝明けゆゑにひなげしを積みし車に会ひたるならむ (五月作)
10 神田の火事
これやこの昨日の夜の火に赤かりし跡どころなれけむり立ち見ゆ
天明けし焼跡どころ焼えかへる火中に音の聞えけるかも
亡ぶるものは悲しけれども目の前にかかれとてしも赤き火にほろぶ
たちのぼる灰塵のなかにくろ眼鏡白き眼鏡を売れりけるかも
和あゆみ眼鏡よろしと言あげてみづからの眼に眼鏡かけたり (三月作)
11 女学院門前
売薬商人しろき帽子をかかぶりて歌ひしかもよ薬のうたを
売薬商人くすりを売ると足並をそろへて歌をうたひけるかも
驢馬にのる少年の眼はかがやけり薬のうたは向うにきこゆ
芝生には小松きよらに生ひたれば人間道の薬かなしも
あかねさす昼なりしかば少女らのふりはへ袖はながかりしかも (三月作)
12 呉竹の根岸の里
にんげんの赤子を負へる子守居りこの子守はも笑はざりけり
日あたれば根岸の里の川べりの青蕗のたう揺りたつらんか
くれたけの根岸里べの春浅み屋上の雪凝りてうごかず
天のなか光りは出でて今はいま雪さんらんとかがやきにけり
角兵衛のをさな童のをさなさに涙ながれて我は見んとす
笛の音のとろりほろろと鳴りたれば紅色の獅子あらはれにけり
いとけなき額のうへにくれなゐの獅子の頭を見そめしかもよ
春のかぜ吹きたるならむ目のもとの光のなかに塵うごく見ゆ
ながらふる日光のなか一いろに我のいのちのめぐるなりけり
あかあかと日輪天にまはりしが猫やなぎこそひかりそめぬれ
くれなゐの獅子のあたまは天なるや廻転光にぬれゐたりけり (一月作)
13 さんげの心
雪のなかに日の落つる見ゆほのぼのと懺悔の心かなしかれども
こよひはや学問したき心起りたりしかすがにわれは床にねむりぬ
風引きて寝てゐたりけり窓の戸に雪ふる聞ゆさらさらといひて
あわ雪は消なば消ぬがにふりたれば眼悲しく消ぬらくを見む
腹ばひになりて朱の墨すりしころ七面鳥に泡雪はふりし
ひる日中床の中より目をひらき何か見つめんと思ほえにけり
雪のうへ照る日光のかなしみに我がつく息はながかりしかも
赤電車にまなこ閉づれば遠国へ流れて去なむこころ湧きたり
家ゆりてとどろと雪はなだれたり今夜は最早幾時ならむ
しんしんと雪ふる最上の上の山弟は無常を感じたるなり
ひさかたのひかりに濡れて縦しゑやし弟は無常を感じたるなり
電灯の球にたまりしほこり見ゆすなはち雪はなだれ果てたり
天霧らし雪ふりてなんぢが妻は細りつつ息をつかんとすらし
あまつ日に屋上の雪かがやけりしづごころ無きいまのたまゆら
しろがねのかがよふ雪に見入りつつ何を求めむとする心ぞも
いまわれはひとり言いひたれどもあはれ哀れかかはりはなし
家にゐて心せはしく街ゆけば街には女おほくゆくなり (一月作)
14 墓前
ひつそりと心なやみて水かける松葉ぼたんはきのふ植ゑにし
しらじらと水のなかよりふふみたる水ぐさの花小さかりけり (八月作)
明治四十五年 大正元年
1 雪ふる日
かりそめに病みつつ居ればうらがなし墓はらとほく雪つもる見ゆ
現身のわが血脈のやや細り墓地にしんしんと雪つもる見ゆ
あま霧し雪ふる見れば飯をくふ囚人のこころわれに湧きたり
わが庭に鵞ら啼きてゐたれども雪こそつもれ庭もほどろに
ひさかたの天の白雪ふりきたり幾とき経ねばつもりけるかも
批把の木の木ぬれに雪のふりつもる心愛憐みしまらくも見し
さにはべの百日紅のほそり木に雪のうれひのしらじらと降る
天つ雪はだらに降れどさにづらふ心にあらぬ心にはあらぬ (十二月作)
2 宮盆坂
荘厳のをんな欲して走りたるわれのまなこに高山の見ゆ
風を引き鼻汁ながれたる一人男は駆足をせず富士の山見けり
これやこの行くもかへるも面黄なる電車終点の朝ぼらけかも
狂者もり眼鏡をかけて朝ぼらけ狂院へゆかず富士の山見居り
馬に乗りりくぐん将校きたるなり女難の相か然にあらずか
向ひには女は居たり青き甕もち童子になにかいひつけしかも
天竺のほとけの世より女人居りこの朝ぼらけをんな行くなり
雪ひかる三国一の富士山をくちびる紅き女も見たり (十二月作)
3 折に触れて
くろぐろと円らに熟るる豆柿に小鳥はゆきぬつゆじもはふり
蔵王山に雪かもふるといひしときはや斑なりといらへけらずや
狂者らは Paederastie をなせりけり夜しんしんと更けがたきかも
ゴオガンの自画像みればみちのくに山蚕殺ししその日おもほゆ
をりをりは脳解剖書読むことありゆゑ知らに心つつましくなり
水のうへにしらじらと雪ふりきたり降りきたりつつ消えにけるかも
身ぬちに重大を感ぜざれども宿直のよるにうなじ垂れゐし
この里に大山大将住むゆゑにわれの心の嬉しかりけり (十二月)
4 青山の鉄砲山
赤き旗けふはのぼらずどんたくの鉄砲山に小供らが見ゆ
日だまりの中に同様のうなゐらは皆走りつつ居たりけるかも
銃丸を土より掘りてよろこべるわらべの側を行き過ぎりけり
青竹を手に振りながら童子来て何か落ちゐぬ面もちをせり
ゆふ日とほく金にひかれば群童は眼つむりて斜面をころがりにけり
群童が皆ころがれば丘のへの童女かなしく笑ひけるかも
いちにんの童子ころがり極まりて空見たるかな太陽が紅し
射的場に細みづ湧きて流れければ童ふたりが水のべに来し (十月作)
5 ひとりの道
霜ふればほろほろと胡麻の黒き実の地につくなし今わかれなむ
夕凝りし露霜ふみて火を恋ひむ一人のゆゑにこころ安けし
ながらふるさ霧のなかに秋花を我摘まんとす人に知らゆな
白雲は湧きたつらむか我ひとり行かむと思ふ山のはざまに
神無月空の果てよりきたるとき眼ひらく花はあはれなるかも
独りなれば心安けし谿ゆきてくちびる触れむ木の実ありけり
ひかりつつ天を流るる星あれど悲しきかもよわれに向はず
行くかたのうら枯るる野に鳥落ちて啼かざりしかも入日赤きに
いのち死にてかくろひ果つるけだものを悲しみにつつ峡に入りけり
みなし児に似たるこころは立ちのぼる白雲に入りて帰らんとせず
もみぢ斑に照りとほりたる日の光りはざまにわれを動かざらしむ
わが歩みここに極まれ雲くだるもみぢ斑のなかに水のみにけり
はるばるも山峡に来て白樺に触りて居たり独りなりけり
ひさかたの天のつゆじもしとしとと独り歩まむ道ほそりたり (十一月作)
6 葬り火 黄涙余録の一
あらはなる棺はひとつかつがれて穏田ばしを今わたりたり
自殺せし狂者の棺のうしろより眩暈して行けり道に入日あかく
陸橋にさしかかるとき兵来れば棺はしまし地に置かれぬ
泣きながすわれの涙の黄なりとも人に知らゆな悲しきなれば
鴉らは我はねむりて居たるらむ狂人の自殺果てにけるはや
死なねばならぬ命まもりて看護婦はしろき火かかぐ狂院のよるに
自らのいのち死なんと直いそぐ狂人を守りて火も恋ひねども
土のうへに赤棟蛇遊ばずなりにけり入る日あかあかと草はらに見ゆ
歩兵隊代々木のはらに群れゐしが狂人のひつぎひとつ行くなり
赤光のなかに浮びて棺ひとつ行き遥けかり野は涯ならん
わが足より汗いでてやや痛みあり靴にたまりし土ほこりかも
火葬場に細みづ白くにごり来も向うにひとが米を磨ぎたれば
死はも死はも悲しきものならざらむ目のもとに木の実落つたはやすきかも
両手をばズボンの隠しに入れ居たりおのが身を愛しと思はねどさびし
葬り火は赤々と立ち燃ゆらんか我がかたはらに男居りけり
うそ寒きゆふべなるかも葬り火を守るをとこが欠伸をしたり
骨瓶のひとつを持ちて価を問へりわが口は乾くゆふさり来り
納骨の箱は杉の箱にして骨がめは黒くならびたりけり
上野なる動物園にかささぎは肉食ひゐたりくれなゐの肉を
おのが身しいとほしきかなゆふぐれて眼鏡のほこり拭ふなりけり
7 冬来 黄涙余録の二
自殺せる狂者をあかき火に葬りにんげんの世に戦きにけり
けだものは食もの恋ひて啼き居たり何といふやさしさぞこれは
ペリガンの嘴うすら赤くしてねむりけりかたはらの水光かも
ひたいそぎ動物園にわれは来たり人のいのちをおそれて来たり
わが目より涙ながれて居たりけり鶴のあたまは悲しきものを
けだもののにほひをかげば悲しくもいのちは明く息づきにけり
支那国のほそき少女の行きなづみ思ひそめにしわれならなくに
さけび啼くけだものの辺に潜みゐて赤き葬りの火こそ思へれ
鰐の子も居たりけりみづからの命死なんとせずこの鰐の子は
くれなゐの鶴のあたまを見るゆゑに狂人守をかなしみにけり
はしきやし暁星学校の少年の頬は赤羅ひきて冬さりにけり
泥いろの山椒魚は生きんとし見つつしをればしづかなるかも
除隊兵写真をもちて電車に乗りひんがしの天明けて寒しも
はるかなる南のみづに生れたる鳥ここにゐてなに欲しみ啼く
8 柿乃村人へ 黄涙余録の三
この夜ごろ眠られなくに心すら細らんとして告げやらましを
たのまれし狂者はつひに自殺せりわれ現なく走りけるかも
友のかほ青ざめてわれにもの云はず今は如何なる世の相かや
おのが身はいとほしければ赤棟蛇も潜みたるなり土の中ふかく
世の色相のかたはらにゐて狂者もり黄なる涙は湧きいてにけり
やはらかに弱きいのちもくろぐろと甲はんとしてうつつともなし
寒ぞらに星ゐたりけりうらがなしわが狂院をここに立ち見つ
かの岡に瘋癩院のたちたるは邪宗来より悲しかるらむ
みやこにも冬さりにけり茜さす日向のなかに髭剃りて居る
遠国へ行かば剃刀のひかりさへ馴れて親しといへば歎かゆ (十一月作)
9 郊外の半日
今しがた赤くなりて女中を叱りしが郊外に来て寒けをおぼゆ
郊外はちらりほらりと人行きてわが息づきは和むとすらん
郊外に未だ落ちゐぬこころもて螇蚸にぎれば冷たきものを
秋のかぜ吹きてゐたれば遠かたの薄のなかに曼珠沙華赤し
ふた本の松立てりけり下かげに曼珠沙華赤し秋かぜが吹き
いちめんの唐辛子畑に秋のかぜ天より吹きて鴉おりたつ
いちめんに唐辛子あかき畑みちに立てる童のまなこ小さし
曼珠沙華咲けるところゆ相むれて現身に似ぬ囚人は出づ
草の実はこぼれんとして居たりけりわが足元の日の光かも
赭土はこぶ囚人の眼の光るころ茜さす日は傾きにけり
トロツコを押す一人の囚人はくちびる赤し我をば見たり
片方に松二もとは立てりしが囚はれ人は其処を通りぬ
秋づきて小さく結りし茄子の果を籠に盛る家の日向に蠅居り
女のわらは入日のなかに両手もて籠に盛る茄子のか黒きひかり
天伝ふ日は傾きてかくろへば栗煑る家にわれいそぐなり
いとまなきわれ郊外にゆふぐれて栗飯食せば悲しこよなし
コスモスの闇にゆらげばわが少女天の戸に残る光を見つつ (十月作)
10 海辺にて
真夏の日てりかがよへり渚にはくれなゐの玉ぬれてゐるかな
海の香は山の彼方に生れたるわれのこころにこよなしかしも
七夜寝て珠ゐる海の香をかげば哀れなるかもこの香いとほし
白なみの寄するなぎさに林檎食む異国をみなはやや老いにけり
あぶらなす真夏のうみに落つる日の八尺の紅のゆらゆらに見ゆ
きこゆるは悲しきさざれうち浸す潮波とどろ湧きたるならむ
うしほ波鳴りこそきたれ海恋ひてここに寝る吾に鳴りてこそ来れ
もも鳥はいまだは啼かね海のなか黒光りして明けくるらむか
岩かげに海ぐさふみて玉ひろふくれなゐの玉むらさき斑のたま
海の香はこよなく悲し珠ひろふわれのこころに染みてこそ寄れ
桜実の落ちてありやと見るまでに赤き珠住む岩かげを来し
ながれ寄る沖つ藻見ればみちのくの春野小草に似てを悲しも
荒磯べに歎くともなき蟹の子の常くれなゐに見ゆらむあはれ
かすかなる命をもちて海つもの美しくゐる荒磯なるかな
いささかの潮のたまりに赤きもの生きて居たれば嬉しむかな
荒磯べに波見てをればわが血なし瞬きの間もかなしかりけり
海のべに紅毛の子の走りたるこのやさしさに我かへるなり
かぎろひの夕なぎ海に小舟入れ西方のひとはゆきにけるはも
くれなゐの三角の帆がゆふ海に遠ざかりゆくゆらぎ見えずも
月ほそく入りなんとする海の上ここよ遥けく舟なかりけり
ぬば玉のさ夜ふけにして波の穂の青く光れば恋しきものを
けふもまた岩かげに来つ靡き藻に虎斑魚の子かくろへる見ゆ
しほ鳴のゆくへ悲しと海のべに幾夜か寝つるこの海のべに
11 狂人守
うけもちの狂人も幾たりか死にゆきて折をりあはれを感ずるかな
かすかなるあはれなる相ありこれの相に親しみにけり
くれなゐの百日紅は咲きぬれど此きやうじんはもの云はずけり
としわかき狂人守りのかなしみは通草の花の散らふかなしみ
気のふれし支那のをみなに寄り添ひて花は紅しと云ひにけるかな
このゆふべ脳病院の二階より墓地見れば花も見えにけるかな
ゆふされば青くたまりし墓みづに食血餓鬼は鳴きかゐるらむ
あはれなる百日紅の下かげに人力車ひとつ見えにけるかな (九月作)
12 土屋文明へ
おのが身をあはれとおもひ山みづに涙を落す人居たりけり
ものみなの饐ゆるがごとき空恋ひて鳴かねばならぬ蝉のこゑ聞ゆ
もの書かむと考へゐたれ耳ちかく蜩なけばあはれにきこゆ
夕さればむらがりて来る油むし汗あえにつつ殺すなりけり
かかる時菴羅の果をも恋ひたらば心落居むとおもふ悲しみ
むらさきの桔梗のつぼみ割りたれば蕊あらはれてにくからなくに
秋ぐさの花さきにけり幾朝をみづ遣りしかとおもほゆるかも
ひむがしのみやこの市路ひとつのみ朝草ぐるま行けるさびしも (七月作)
13 夏の夜空
墓原に来て夜空見つ目のきはみ澄み透りたるこの夜空かな
なやましき真夏なれども天なれば夜空は悲しうつくしく見ゆ
きやう人を守りつつ住めば星のゐる夜ぞらも久に見ずて経にけり
目をあげてきよき天の原見しかども遠の珍のここちこそすれ
ひさびさに夜空を見ればあはれなるかな星群れてかがやきにけり
空見ればあまた星居りしかれども弥々とほくひかりつつ見ゆ
汗ながれてちまたの長路ゆくゆゑにかうべ垂れつつ行けるなりけり
久ひさに星ぞらを見て居りしかばおのれ親しくなりてくるかも (七月作)
14 折々の歌
とろとろとあかき落葉火もえしかば女の男の童をどりけるかも
雨ひと夜さむき朝けを目の下の死なねばならぬ鳥見て立てり
をんな寝る街の悲しきひそみ土ここに白霜は消えそめにけり
猫の舌のうすらに紅き手の触りのこの悲しさに目ざめけるかも
ほのかなる茗荷の花を見守る時わが思ふ子ははるかなるかも
をさな児の遊びにも似し我がけふも夕かたまけてひもじかりけり (研究室二首)
屈まりて脳の切片を染めながら通草のはなをおもふなりけり
みちのくの我家の里に黒き蚕が二たびねぶり目ざめけらしも (故郷三首)
みちのくに病む母上にいささかの胡瓜を送る障りあらすな
おきなぐさに唇ふれて帰りしがあはれあはれいま思ひ出でつも
曼珠沙華ここにも咲きてきぞの夜のひと夜の相あらはれにけり
秋に入る練兵場のみづたまりに小蜻蛉が卵を生みて居りけり
現身のわれをめぐりてつるみたる赤き蜻蛉が幾つも飛べり
酒の糟あぶりて室に食むこころ腎虚のくすり尋ねゆくこころ
けふもまた向ひの岡に人あまた群れゐて人を葬りたるかな
何ぞもとのぞき見しかば弟妹らは亀に酒をば飲ませてゐたり
太陽はかくろひしより海のうへ天の血垂りのこころよろしき
狂院に寝てをれば夜は温るし我に触るるなし蟾蜍は啼きたり
伽羅ぼくに伽羅の果こもりくろき猫ほそりてあゆむ夏のいぶきに
蛇の子はぬば玉いろに生れたれば石の間にもかくろひぬらむ
ほそき雨墓原に降りぬれてゆく黒土に烟草の吸殻を投ぐ
墓はらを白足袋はきて行けるひと遠く小さく悲しかりけり
萱草をかなしと見つる眼にいまは雨に濡れ行く兵隊が見ゆ
墓はらを歩み来にけり蛇の子を見むと来つれど春あさみかな
病院をいでて墓原かげの土踏めば何になごみ来しあが心ぞも
松風の吹き居るところくれなゐの提灯つけて分け入りにけり
15 さみだれ
さみだれは何に降りくる梅の実は熟みて落つらむこのさみだれに
にはとりの卵の黄身の乱れゆくさみだれごろのあぢきなきかな
胡頽子の果のあかき色ほに出づるゆゑ秀に出づるゆゑに歎かひにけり (おくにを憶ふ)
ぬば玉のさ夜の小床にねむりたるこの現身はいとほしきかな
しづかなる女おもひてねむりたるこの現身はいとほしきかな
鳥の子の毈に果てむこの心もののあはれと云はまくは憂し
あが友の古泉千樫は貧しけれさみだれの中をあゆみゐたりき
けふもまた雨かとひとりごちながら三州味噌をあぶりて食むも (六月作)
16 両国
肉太の相撲とりこそかなしけれ赤き入り日に目かげをしたり
川向の金の入日をいまさらに今さらさらに我も見入りつ
猿の肉ひさげる家に灯がつきてわが寂しさは極まりにけり
猿の面いと赤くして殺されにけり両国ばしを渡り来て見つ
きな臭き火縄おもほゆ薬種屋に亀の甲羅のぶらさがり見ゆ
笛鳴ればかかれとてしもぬば玉の夜の灯ともりて舟ゆきにけり
冬河の波にさやりてのぼる舟橋のべに来て帆を下ろしつつ
あかき面安らかに垂れ稚な猿死にてし居れば灯があたりたり (一月作)
17 犬の長鳴
よる深くふと握飯食ひたくなり握めし食ひぬ寒がりにつつ
わが体ねむらむとしてゐたるとき外はこがらしの行くおときこゆ
遠く遠く流るるならむ灯をゆりて冬の疾風は行きにけるかも
長鳴くはかの犬族のなが鳴くは遠街にして火は燃えにけり
さ夜ふけと夜の更けにける暗黒にびようびようと犬は鳴くにあらずや
たちのぼる炎のにほひ一天を離りて犬は感じけるはや
夜の底をからくれなゐに燃ゆる火の天に輝りたれ長鳴きこゆ
生けるものうつつに生ける獣はくれなゐの火に長鳴きにけり (二月作)
18 木こり 羽前国高湯村
常赤く火をし焚かんと現し身は木原へのぼるこころのひかり
山腹の木はらのなかへ堅凝りのかがよふ雪を踏みのぼるなり
天のもと光りにむかふ楢木はら伐らんとぞする男とをんな
をとこ群れをんなは群れてひさかたの天の下びに木を伐りにけり
さんらんと光のなかに木伐りつつにんげんの歌うたひけるかも
ゆらゆらと空気を揺りて伐られたりけり斧のひかれば大木ひともと
山上に雲こそ居たれ斧ふりてやまがつの目はかがやきにけり
うつそみの人のもろもろは生きんとし天然のなかに斧ふり行くも
斧ふりて木を伐るそばに小夜床の陰のかなしさ歌ひてゐたり
もろともに男の面の赤赤と小雀もゐつつ山みづの鳴る
雲のうへに行けるをんなは堅飯と赤子を背負ひうたひて行けり
雪のべに火がとろとろと燃えぬれば赤子は乳をのみそめにけり
うち日さす都をいでてほそりたる我のこころを見んとおもへや
杉の樹の肌に寄ればあな悲し くれなゐの油滲み出るかなや
はるばるも来つれこころは杉の樹の紅の油に寄りてなげかふ
遠天に雪かがやけば木原なる大鋸くづ越えて小便をせり
みちのくの蔵王の山のやま腹にけだものと人と生きにけるかも (二月作)
19 木の実
しろがねの雪ふる山に人かよふ細ほそとして路見ゆるかな
赤茄子の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり
満ち足らふ心にあらぬ 谷つべに酢をふける木の実を食むこころかな
山とほく入りても見なむうら悲しうら悲しとぞ人いふらむか
紅茸の雨にぬれゆくあはれさを人に知らえず見つつ来にけり
山ふかく谿の石原しらじらと見え来るほどのいとほしみかな
かうべ垂れ我がゆく道にぽたりぽたり橡の木の実は落ちにけらずや
ひとり居て朝の飯食む我が命は短かからむと思ひて飯はむ (一月作)
20 睦岡山中
寒ざむとゆふぐれて来る山のみち歩めば路は湿れてゐるかな
山ふかき落葉のなかに夕のみづ天より降りてひかり居りけり
何ものの眼のごときひかりみづ山の木はらに動かざるかも
現し身の瞳かなしく見入りぬる水はするどく寒くひかれり
都会のどよみをとほくこの水に口触れまくは悲しかるらむ
天さかる鄙の山路にけだものの足跡を見ればこころよろしき
なげきより覚めて歩める山峡に黒き木の実はこぼれ腐りぬ
寂しさに堪へて空しき我が肌に何か触れて来悲しかるもの
ふゆ山にひそみて玉のあかき実を啄みてゐる鳥見つ今は
風おこる木原をとほく入りつ日の赤き光りはふるひ流るも
赤光のなかの歩みはひそか夜の細きかほそきゆめごころかな (一月作)
21 或る夜
くれなゐの鉛筆きりてたまゆらは慎ましきかなわれのこころの
をさな妻をとめとなりて幾百日こよひも最早眠りゐるらむ
寝ねがてにわれ烟草すふ烟草すふ少女は最早眠りゐるらむ
いま吾は鉛筆をきるその少女安心をして眠りゐるらむ
わが友は蜜柑むきつつ染じみとはや抱きねといひにけらずや
けだものの暖かさうな寝すがた思ひうかべて独りねにけり
寒床にまろく縮まりうつらうつら何時のまにかも眠りゐるかな
水のべの花の小花の散りどころ盲目になりて抱かれて呉れよ (一月作)
明治四十四年
1 此の日頃
よるさむく火を警むるひようしぎの聞え来る頃はひもじかりけり
この宵はいまだ浅けれ床ぬちにのびつつ何か考へむとおもふ
尺八のほろほろと行く悲し音はこの世の涯に遠ざかりなむ
入りつ日の赤き光のみなぎらふ花野はとほく恍け溶くるなり
さだめなきものの魘の来る如く胸ゆらぎして街をいそげり
うらがなしいかなる色の光はや我のゆくへにかがよふらむか
生くるもの我のみならず現し身の死にゆくを聞きつつ飯食しにけり
をさな児のひとり遊ぶを見守りつつ心よろしくなりてくるかも (一月作)
2 おくに
なにか言ひたかりつらむその言も言へなくなりて汝は死にしか
はや死にてゆきしか汝いとほしと命のうちに吾はいひしかな
とほ世べに往なむ今際の目にあはず涙ながらに嬉しむものを
なにゆゑに泣くと額なで虚言も死に近き子に吾は言へりしか
これの世に好きななんぢに死にゆかれ生きの命の力なし我は
あのやうにかい細りつつ死にし汝があはれになりて居りがてぬかも
ひとたびは癒りて呉れよとうら泣きて千重にいひたる空しかるかな
この世にも生きたかりしか一念も申さず逝きしよあはれなるかも
何も彼もあはれになりて思ひづるお国のひと世はみぢかかりしか
にんげんの現実は悲ししまらくも漂ふごときねむりにゆかむ
やすらかな眠もがもと此の日ごろ眠ぐすりに親しみにけり
なげかひも人に知らえず極まれば何に縋りて吾は行きなむか
しみ到るゆふべのいろに赤くゐる火鉢のおきのなつかしきかも
現身のわれなるかなと歎かひて火鉢をちかく身に寄せにけり
ちから無く鉛筆きればほろほろと紅の粉が落ちてたまるも
灰のへにくれなゐの粉の落ちゆくを涙ながしていとほしむかも
生きてゐる汝がすがたのありありと何に今頃見えきたるかや (一月作)
3 うつし身
雨にぬるる広葉細葉のわか葉森あが言ふ声のやさしくきこゆ
いとまなき吾なればいま時の間の青葉の揺も見むとしおもふ
しみじみととおのに親しきわがあゆみ墓はらの蔭に道ほそるかな
やはらかに濡れゆく森のゆきずりに生の疲の吾をこそ思へ
よにも弱き吾なれば忍ばざるべからず雨ふるよ若葉かへるで
にんげんは死にぬ此のごと吾は生きて夕いひ食しに帰へらなむいま
黒土に足駄の跡の弱けれどおのが力とかへり見にけり
うちどよむ衢のあひの森かげに残るみづ田をいとしくおもふ
青山の町蔭の田の水さび田にしみじみとして雨ふりにけり
森かげの夕ぐるる田に白きとり海とりに似しひるがへり飛ぶ
寂し田に遠来し白鳥見しゆゑに弱ければ吾はうれしくて泣かゆ
くわん草は丈ややのびて湿りある土に戦げりこのいのちはや
はるの日のながらふ光に青き色ふるへる麦の嫉くてならぬ
春浅き麦のはたけにうごく虫手ぐさにはすれ悲しみわくも
うごき行く虫を殺してうそ寒く麦のはたけを横ぎりにけり
いとけなき心葬りのかなしさに蒲公英を掘るせとの岡べに
仄かにも吾に親しき予言をいはまくすらしき黄いろ玉はな (四月五月作)
4 うめの雨
おのが身をいとほしみつつ帰り来る夕細道に柿の花落つも
はかなき身も死にがてぬこの心君し知れらば共に行きなむ
さみだれのけならべ降れば梅の実の円大きくここよりも見ゆ
天に戦ぐほそ葉わか葉に群ぎもの心寄りつつなげかひにけり
かぎろひのゆふさりくれど草のみづかくれ水なれば夕光なしや
ゆふ原の草かげ水にいのちいくる蛙はあはれ啼きたるかなや
うつそみの命は愛しとなげき立つ雨の夕原に音するものあり
くろく散る通草の花のかなしさを稚くてこそおもひそめしか
おもひ出も遠き通草の悲し花きみに知らえず散りか過ぎなむ
道のべの細川もいま濁りみづいきほひながる夜の雨ふり
汝兄よ汝兄たまごが鳴くといふゆゑに見に行きければ卵が鳴くも
あぶなくも覚束なけれ黄いろなる円きうぶ毛が歩みてゐたり
見てを居り心よろしも鶏の子はついばみ乍らゐねむりにけり
庭つとり鶏のひよこも心がなし生れて鳴けば母にし似るも
乳のまぬ庭とりの子は自づから哀れなるかもよもの食みにけり
常のごと心足らはぬ吾にあれひもじくなりて今かへるなり
たまたまに手など触れつつ添ひ歩む枳殻垣にほこりたまれり
ものがくれひそかに煙草すふ時の心よろしさのうらがなしかり
青葉空雨なりたれ吾いまこころ細ほそと別れゆくかも
天さかり行くらむ友に口寄せてひそかに何かいひたきものを (五月六月作)
5 蔵王山
蔵王をのぼりてゆけばみんなみの吾妻の山に雲のゐる見ゆ
たち上る白雲のなかにあはれなる山鳩啼けり白くものなかに
ま夏日の日のかがやきに桜の実熟みて黒しもわれは食みたり
あまつ日に目蔭をすれば乳いろの湛かなしきみづうみの見ゆ
死にしづむ火山のうへにわが母の乳汁の色のみづ見ゆるかな
秋づけばはらみてあゆむけだものも酸のみづなれば舌触りかねつ
赤蜻蛉むらがり飛べどこのみづに卵うまねばかなしかりけり
ひんがしの遠空にして絹いとのひかりは悲し海つ波なれば (八月作)
6 秋の夜ごろ
玉きはる命をさなく女童をいだき遊びき夜半のこほろぎ
こよひも生きてねむるとうつらうつら悲しき虫を聞きほくるなり
ことわりもなき物怨み我身にもあるが愛しく虫ききにけり
少年の流されびとのいとほしと思ひにければこほろぎが鳴く
秋なればこほろぎの子の生れ鳴く冷たき土をかなしみにけり
少年の流され人はさ夜の小床に虫なくよ何の虫よといひけむ
かすかなるうれひにゆるるわが心蟋蟀聞くに堪へにけるかな
蟋蟀の音にいづる夜の静けさにしろがねの銭かぞへてゐたり
紅き日の落つる野末の石の間のかそけき虫にあひにけるかも
足もとの石のひまより静けさに顫ひて出づる音に頼りにけり
入りつ日の入りかくろへば露満つる秋野の末にこほろぎ鳴くも
うちどよむちまたを過ぎてしら露のゆふ凝る原にわれは来にけり
星おほき花原くれば露は凝りみぎりひだりにこほろぎ鳴くも
ころろぎのかそけき原も家ちかみ今ほほ笑ふ女の童きこゆ
はるばると星落つる夜の恋がたり悲しみの世にわれ入りにけり
濠のみづ干ゆけばここに細き水流れ会ふかな夕ひかりつつ
女の童をとめとなりて泣きし時かなしく吾はおもひたりしか
さにづらふ少女ごころに酸漿の籠らふほどの悲しみを見し
ひとり歩む玉ひや冷とうら悲し月より降りし草の上の露
こほろぎはこほろぎゆゑに露原に音をのみぞ鳴く音をのみぞ鳴く (九月作)
7 折に触れて
なみだ落ちて懐しむかもこの室にいにしへ人は死に給ひにし (子規十周忌三首)
自からをさげすみ果てし心すら此夜はあはれ和みてを居ぬ
しづかに眼をつむり給ひけむ自づからすべては冷たくなり給ひけむ
涙ながししひそか事も、消ゆるかや、吾より秋なれば桔梗は咲きぬ (録三首)
きちかうのむらさきの花萎む時わが身は愛しとおもふかなしみ
さげすみ果てしこの身も堪へ難くなつかしきことありあはれあはれわが少女
栗の実の笑みそむるころ谿越えてかすかなる灯に向ふひとあり (録三首)
かどはかしに逢へるをとめのうつくしと思ひ通ひて谿越えにけり
うつくしき時代なるかな山賊はもみづる谿にいのち落せし
おのづからうら枯るるらむ秋ぐさに悲しかるかも実籠りにけり
ひさかたの霜ふる国に馬群れてながながし路くだるさみしみ
死に近き狂人を守るはかなさに己が身すらを愛しとなげけり
照り透るひかりの中に消ぬべくも蟋蟀と吾となげかひにけり
つかれつつ目ざめがちなるこの夜ごろ寐よりさめ聞くながれ水かな
朝さざれ踏みの冷めたくあなあはれ人の思の湧ききたるかも
秋川のさヾれ踏み往き踏み来とも落ちゐぬ心君知るらむか
土のうへの生けるものらの潜むべくあな慌し秋の夜の雨
秋のあめ煙りて降ればさ庭べに七面鳥は羽もひろげず
寒ざむとひと夜の雨のふりしかば病める庭鳥をいたはり兼ねつ
ほそほそとこほろぎの音はみちのくの霜ふる国へとほ去りぬらむ
8 遠き世のガレーヌスは春のあけぼの Ornamentum loci をかなしみぬ。われは東海の国の伽羅の木かげ Pluma loci といひてなげかふ。
伽羅ぼくのこのみのごとく仄かなるはかなきものか pluma loci よ
ほのかなるものなりければをとめごはほほと笑ひてねむりたるらむ
明治四十三年
1 田螺と彗星
とほき世のかりようびんがのわたくし児田螺はぬるきみづ恋ひにけり
田螺はも背戸の円田にゐると鳴かねどころりころりと幾つもゐるも
わらくずのよごれて散れる水無田に田螺の殻は白くなりけり
気ちがひの面まもりてたまさかは田螺も食べてよるいねにけり
赤いろの蓮まろ葉の浮けるとき田螺はのどにみごもりぬらし
味噌うづの田螺たうべて酒のめば我が咽喉仏うれしがり鳴る
南蛮の男かなしと恋ひ生みし田螺にほとけの性ともしかり
ためらはず遠天に入れと彗星の白きひかりに酒たてまつる
うつくしく瞬きてゐる星ぞらに三尺ほどなるははき星をり
きさらぎの天たかくして彗星ありまなこ光りてもろもろは見る
入り日ぞら暮れゆきたれば尾を引ける星にむかひて子等走りたり
2 南蛮男
くれなゐの千しほのころも肌につけゆららゆららに寄りもこそ寄れ (録八首)
南蛮のをとこかなしと抱かれしをだまきの花むらさきのよる
なんばんの男いだけば血のこゑすその時のまの血のこゑかなし
南より笛吹きて来る黒ふねはつばくらめよりかなしかりけり
夕がらす空に啼ければにつぽんの女のくちもあかく触りぬれ
入り日空見たる女はうらぐはし乳房おさへて居たりけるかな
瞳青きをとこ悲しと島をとめほのぼのとしてみごもりにけり
なんばんの黒ふねゆれてはてし頃みごもりし人いまは死にせり
にほひたる畳のうへに白たまの静まりたるを見すぐしがてぬ (録三首)
しらたまの色のにほひを哀とぞ見し玉ゆらのわれやつみびと
罪ひとの触れんとおもふしら玉の戦きたらばすべなからまし
3 をさな妻
墓はらのとほき森よりほろほろと上るけむりに行かむとおもふ
木のもとに梅はめば酸しをさな妻ひとにさにづらふ時たちにけり
をさな妻こころに持ちてあり経れば赤き蜻蛉の飛ぶもかなしも
目を閉づれすなはち見ゆる淡々し光に恋ふるもさみしかるかな
ほこり風立ちてしづまるさみしみを市路ゆきつつかへりみるかも
このゆふべ塀にかわけるさび紅のべにがらの垂りをうれしみにけり
公園に支那のをとめを見るゆゑに幼な妻もつこの身愛しけれ
嘴あかき小鳥さへこそ飛ぶならめはるばる飛ばは悲しきろかも
細みづにながるる砂の片寄りに静まるほどのうれひなりけり
水さびゐる細江の面に浮きふふむこの水草はうごかざるかな
汗ばみしかうべを垂れて抜け過ぐる公園に今しづけさに会ひぬ
をさな妻をさなきままにその目より涙ながれて行きにけるかも
をだまきの咲きし頃よりくれなゐにゆららに落つる太陽こそ見にけれ
をさな妻ほのかに守る心さへ熱病みしより細りたるなれ (折々の作)
4 悼堀内卓
堀内はまこと死にたるかありの世かいめ世かくやしいたましきかも
信濃路のゆく秋の夜のふかき夜をなにを思ひつつ死にてゆきしか
うつそみの人の国をば君去りて何辺にゆかむちちははをおきて
早はやも癒りて来よと祈むわれになにゆゑに逝きし一言もなく
いまよりはまことこの世に君なきかありと思へどうつつにはなきか
深き夜のとづるまなこにおもかげに見えくる友をなげきわたるも
霜ちかき虫のあはれを君と居て泣きつゝ聞かむと思ひたりしか (十月作)
自明治三十八年 至明治四十二年
1 折に触れ 明治三十八年作
黒き実の円らつぶらとひかる実の柿は一本たちにけるかも
浅草の仏つくりの前来れば少女まぼしく落日を見るも
本よみて賢くなれと戦場のわが兄は銭を呉れたまひたり
戦場のわが兄より来し銭もちて泣きゐたりけり涙が落ちて
桑畑の畑のめぐりに紫蘇生ひてちぎりて居ればにほひするかも
はるばると母は戦を思ひたまふ桑の木の実は熟みゐたりけり
けふの日は母の辺にゐてくろぐろと熟める桑の実食みにけるかも
かがやける真夏日のもとたらちねは戦を思ふ桑の実くろし
馬屋のべにをだまきの花乏しらにをりをり馬が尾を振りにけり
数学のつもりになりて考へしに五目並べに勝ちにけるかも
熱いでて一夜寝しかばこの朝け梅のつぼみをつばらかに見つ
春かぜの吹くことはげし朝ぼらけ梅のつぼみは大きかりけり
入りかかる日の赤きころニコライの側の坂をば下りて来にけり
寝て思へば夢の如かり山焼けて南の空はほの赤かりし
さ庭べの八重山吹の一枝ちりしばらく見ねばみな散りにけり
日輪がすでに真赤になりたれば物干にいでて欠伸せりけり
ゆふさりてランプともせばひと時は心静まりて何もせず居り
2 地獄極楽図 明治三十九年
浄玻瓈にあらはれにけり脇差を差して女をいぢめるところ
飯の中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎口のおどろくところ
赤き池にひとりぼつちの真裸のをんな亡者の泣きゐるところ
いろいろの色の鬼ども集りて蓮の華にゆびさすところ
人の世に嘘をつきけるもろもろの亡者の舌を抜き居るところ
罪計に涙ながしてゐる亡者つみを計れば巌より重き
にんげんは馬牛となり岩負ひて牛頭馬頭どもの追ひ行くところ
をさな児の積みし小石を打くづし紺いろの鬼見てゐるところ
もろもろは裸になれと衣剥ぐひとりの婆の口赤きところ
白き華しろくかがやき赤き華赤き光りを放ちゐるところ
ゐるものは皆ありがたき顔をして雲ゆらゆらと下り来るところ
蛍 昼見れば首筋あかき蛍かな 芭蕉
蚕の室に放ちしほたるあかねさす昼なりければ首は赤しも
蚊帳のなかに放ちし蛍夕さればおのれ光りて飛びて居りけり
あかときの草の露たま七いろにかがやきわたり蜻蛉生れけり
あかときの草に生れて蜻蛉はも未だ軟らかみ飛びがてぬかも
小田のみち赤羅ひく日はのぼりつつ生れし蜻蛉もかがやきにけり (明治三十九年作)
折に触れて 明治三十九年作
来て見れば雪げの川べ白がねの柳ふふめり蕗の薹も咲けり (二首)
あづさ弓春は寒けど日あたりのよろしき所つくづくし萌ゆ
生きて来し丈夫がおも赤くなりをどるを見れば嬉しくて泣かゆ (二首)
凱旋り来て今日のうたげに酒をのむ海のますらをに髯あらずけり
み仏の生れましの日と玉蓮をさな朱の葉池に浮くらし (二首)
み仏のみ堂に垂るる藤なみの花の紫いまだともしも
青玉のから松の芽はひさかたの天にむかひて並びてを萌ゆ (二首)
春さめは天の乳かも落葉松の玉芽あまねくふくらみにけり
みちのくの仏の山のこごしこごし岩秀に立ちて汗ふきにけり (立石寺)
天の露落ちくるなべに現し世の野べに山べに秋花咲けり
涅槃会をまかりて来れば雪つめる山の彼方は夕焼のすも
小滝まで行かむは未だくたびれの息つく坂よ山鳩のこゑ
夕ひかる里つ川水夏くさにかくるる所まろき山見ゆ
淡青の遠のむら山たびごろもわが目によしと寝てを見にけり
火の山を回る秋雲の八百雲をゆらに吹きまく天つ風かも (蔵王山五首)
岩の秀に立てばひさかたの天の川南に垂れてかがやきにけり
天なるや群がりめぐる高ぼしのいよいよ清く山高みかも
雲の中の蔵王の山は今もかもけだもの住まず石あかき山
あめなるや月読の山はだら牛うち臥すなして目に入りにけり
病癒えし君がにぎ面の髯あたり目にし浮びてうれしくてならず (蕨真氏病癒ゆ)
5 虫 明治四十年作
花につく朱の小蜻蛉ゆふされば眠りけらしもこほろぎが鳴く
とほ世べの恋のあはれをこほろぎの語り部が夜々つぎかたりけり
月落ちてさ夜ほの暗く未だかも弥勒は出でず虫鳴けるかも
ヨルダンの河のほとりに虫なくと書に残りて年ふけにけり
なが月の清きよひよひ蟋蟀やねもころころに率寝て鳴くらむ
きのふ見し千草もあらず虫の音も空に消入りうらさびにけり
あきの夜のさ庭に立てばつちの虫音は細細と悲しらに鳴く
なが月の秋ゑらぎ鳴くこほろぎに螻蛄も交りてよき月夜かも
6 雲 明治四十年作
かぎろひの夕べの空に八重なびく朱の雲旗遠にいざよふ
岩根ふみ天路をのぼる脚底ゆいかづちぐもの湧き巻きのぼる
蔵王の山はらにして目を放つ磐城の諸嶺くも湧ける見ゆ
底知らに瑠璃のただよふ天の門に凝れる白雲誰まつ白雲
岩ふみて吾立つやまの火の山に雲せまりくる五百つ白雲
遠ひとに吾恋ひ居れば久かたの天のたな雲に鶴飛びにけり
あめつちの寄り合ふきはみ晴れとほる高山の背に雲ひそむ見ゆ
八重山の八谷かぜ起りひさかたの天に白雲のゆらゆらと立つ
たくひれのかけのよろしき妹が名の豊旗雲と誰がいひそめし
小旗ぐも大旗雲のなびかひに今し八尺の日は入らむとす
いなびかりふくめる雲のたたずまひ物ほしにのりてつくづくと見つ
ひと国をはるかに遠き天ぐもの氷雲のほとり行くは何ぞも
雲に入る薬もがもと雲恋ひしもろこしの君は昔死にけり
ひむがしの天の八重垣しろがねと笹べり赫く渡津見の雲
7 苅しほ 明治四十年作
秋のひかり土にしみ照り苅しほに黄ばめる小田を馬が来る見ゆ
竹おほき山べの村の冬しづみ雪降らなくに寒に入りけり
ふゆの日のうすらに照れば並み竹は寒ざむとして霜しづくすも
窓の外に月照りしかば竹の葉のさやのふる舞あらはれにけり
しもの夜のさ夜のくだちに戸を押すや竹群が奥に朱の月みゆ
竹むらの影にむかひて琴ひかば清搔にしも引くべかりけり
月あかきもみづる山に小猿ども天つ領巾など欲りしてをらむ
猿の子の目のくりくりを面白み日の入りがたをわがかへるなり
8 留守居 明治四十年作
まもりゐの縁の入り日に飛びきたり縄がをもむに笑ひけるかも
一人して留守居さみしら青光る蝿のあゆみをおもひ無に見し
留守をもるわれの机にえ少女のえ少男の蝿がゑらぎ舞ふかも
秋の日の畳の上に飛びあよむ蝿の行ひ見つつ留守すも
入り日さすあかり障子はばら色にうすら匂ひて蝿一つとぶ
事なくて見ゐる障子に赤とんぼかうべ動かす羽さへふるひ
まもりゐのあかり障子にうつりたる蜻蛉は行きて何も来ぬかも
留守もりて入り日紅けれ紙ふくろ猫に冠せんとおもほえなくに
9 新年の歌 明治四十一年
今しいま年の来るとひむがしの八百うづ潮に茜かがよふ
高ひかる日の母を恋ひ地の廻り廻り極まりて天新たなり
東海に磤馭慮生れていく継ぎの真日美はしく天明けにけり
ひむがしの朱の八重ぐもゆ斑駒に乗りて来らしも年の若子は
年のはの真日のうるはしくれなゐを高きに上り目蔭して見つ
新装ふ日の大神の清明目を見まくと集ふ現しもろもろ
天明り年のきたるとくだかけの長鳴鳥がみな鳴けるかも
しだり尾のかけの雄鳥が鳴く声の野に遠音して年明けにけり
ひむがしの空押し晴るし守らへる大和島根に春立てるかも
うるはしと思ふ子ゆゑに命欲り夢のうつらと年明けにけり
沖つとりかもかもせむと初春にこころ問して見まくたぬしも
打日さす大城の森のこ緑のいや時じくに年ほぐらしも
豊酒の屠蘇に吾ゑへば鬼子ども皆死ににけり赤き青きも
くれなゐの梅はよろしも新たまの年の端に見れば特によろしも
10 雑歌 明治四十一年作
あかときの畑の土のうるほひに散れる桐の花ふみて来にけり
青桐のしみの広葉の葉かげよりゆふべの色はひろごりにけり
ひむがしのともしび二つこの宵も相寄らなくてふけわたるかな
うつそみのこの世のくにに春はさり山焼くるかも天の足り夜を
ひさ方の天の赤瓊のにほひなし遥けきかもよ山焼くる火は
うつしよは一夏に入りて吾がこもる室の畳に蟻を見しかな
真夏日の雲の峯天のひと方に夕退きにつつかがやきにけり
荒磯ねに八重寄る波のみだれたちいたぶる中の寂しさ思ふ
秋の夜を灯しづかに揺るる時しみじみわれは耳かきにけり
ほそほそと虫啼きたれば壁にもたれ膝に手を組む秋のよるかも
旅ゆくと井に下り立ちて冷々に口そそぐべの月見ぐさのはな
11 塩原行 明治四十一年作
晴れ透るあめ路の果てに赤城根の秋の色はも更け渡りけり
小筑波を朝を見しかば白雲の凝れるかかむり動くともせず
関屋いでて坂路になればちらりほらり染めたる木々が見えきたるかも
おり上り通り過がひしうま二つ遥かになりて尾を振るが見ゆ
山角にかへり見すれば歩み来し街道筋は細りてはるけし
馬車とどろ角を吹き吹き塩はらのもみづる山に分け入りにけり
山路わだ紅葉はふかく山たかくいよよ逼り来わがまなかひに
とうとうと喇叭を吹けば塩はらの深染の山に馬車入りにけり
つぬさはふ岩間を垂るるいは水のさむざむとして土わけ行くも
湯のやどのよるのねむりはもみぢ葉の夢など見つつねむりけるかも
夕ぐれの川べに立ちて落ちたぎつ流るる水におもひ入りたり
あかときを目ざめて居ればくだの音の近くに止みぬ馬車着けるらし
床ぬちにぬくまり居れば宿の女が起きねといへど起きがてぬかも
世のしほと言のたふとき名に負へる塩はらの山色づきにけり
谷川の音をききつつ分け入れば一あしごとに山あざやけし
山深くひた入り見むと露じもに染みし紅葉を踏みつつぞ行く
三千尺の目下の極みかがよへる紅葉のそこに水たぎち見ゆ
かへりみる谷の紅葉の明らけく天に響かふ山がはの鳴り
現し我が恋心なす水の鳴りもみぢの中に籠りて鳴るも
山川のたぎちのどよみ耳底にかそけくなりて峯を越えつも
ふみて入るもみぢが奥は横はる朽ち木の下を水ゆく音す
山がはの水のいきほひ大岩にせまりきはまり音とどろくも
うつそみは常なけれども山川に映ゆる紅葉をうれしみにけり
うつし身の稀らにかよふ秋やまに親しみて鳴く蟋蟀のこゑ
打ちわたす山の雑木の黄にもみぢ明るき峡に道入りにけり
もみぢ原ゆふぐれしづむ蟋蟀はこのさみしみに堪へて鳴くなり
つかれより美しいめに入る如き思ひぞ吾がする蟋蟀のこゑ
もみぢ照りあかるき中に我が心空しくなりてしまし居りけり
しほ原の湯の出でどころとめ来ればもみぢの赤き所なりけり
山の湯のみなもとどころ鉄色にさびさびにけり草もおひなく
鉄さびし湯の原のさ流れに蟹が幾つも死にてゐたりも
親馬にあまえつつ来る子馬にし心動きて過ぎがてにせり
あしびきの山のはざまの西開き遠くれなゐに夕焼くる見ゆ
橋のべのちひさ楓かへり路になかくれなゐと染めて居りけり
天地のなしのまにまに寄り合へる貝の石あはれとことはにして
ほり出すいはほのひまの貝の石ただ珍しみありがてぬかも
玉ゆらのうれしごころもとはの世へ消えなく行かむはかなむ勿れ
おくやまの深き岩間ゆ海つもの石と成り出づ君に恋ふるとき
もみぢ葉の過ぎしを思ひ繁き世に触りつるなべに悲しみにけり
山峡のもみぢに深く相こもりほれ果てなむか峡のもみぢに
もみぢ斑の山の真洞に雲おり来雲はをとめの領巾濡らし来も
火に見ゆる玉手の動き少女らは何に天降りてもみぢをか焚く
天そそる白くもが上のいかし山夜見の国さび月かたむきぬ
まぼろしにもの恋ひ来れば山川の鳴る谷際に月満てりけり
12 折に触れて 明治四十二年作
潮沫のはかなくあらばもろ共にいづべの方にほろひてゆかむ
やうらくの珠はかなしと歎かひし女のこころうつらさびしも
宵あさくひとり居りけりみづひかり蛙ひとつかいかいと鳴くも
をさな妻こころに守り更けしづむ灯火の虫を殺してゐたり
かがまりて見つつかなしもしみじみと水湧き居れば砂うごくかな
夏晴れのさ庭の木かげ梅の実のつぶらの影もさゆらぎて居り
春闌けし山峡の湯にしづ籠り楤の芽食しつつひとを思はず
馬に乗り湯どころ来つつ白梅のととのふ春にあひにけるかも
ひとり居て卵うでつつたぎる湯にうごく卵を見つつうれしも
干柿を弟の子に呉れ居れば淡々と思ひいづることあり
ゆふぐれのほどろ雪路をかうべ垂れ湿れたる靴をはきて行くかも
世のなかの憂苦も知らぬ女わらはの泣くことはあり涙ながして
春の風ほがらに吹けばひさかたの天の高低に凧が浮べり
萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ
青山の町かげの田の畔みちをそぞろに来つれ春あさみかも
春あさき小田の朝道あかあかと金気浮く水にかぎろひのたつ
明けがたに近き夜さまのおのづから我心にし触るらく思ほゆ
天竺のほとけの世より子らが笑にくからなくて君も笑むかな
さみだれはきのふより降り行々子をほのぼのやさしく聞く今宵かも
八百会のうしほ遠鳴るひむがしのわたつ天明雲くだるなり
13 細り身 明治四十二年作
重かりし熱の病のかくのごと癒えにけるかとかひな撫るも
蜩のかなかなかなと鳴きゆけば吾のこころのほそりたりけれ
あな甘、粥強飯を食すなべに細りし息の太りゆくかも
まことわれ癒えぬともへば群ぎものこころの奥がに悲しみ湧くも
やまひ去り嬉しみ居ればほのぼのに心ぐけくもなりて来るかも
たまたまの現しき時はわが命生きたかりしかこのうつし世に
病みぬればほのぼのとしてあり経たる和世のすがた悲しみにけり
いはれ無に涙がちなるこのごろを事更ぶともひと云ふらむか
しまし間も今の悶えの酒狂になるを得ばかも嬉しかるべし
閉づる目ゆ熱き涙のはふり落ちはふり落ちつつあきらめ兼ねつ
やみ恍けおどろへにたれさ庭べに夕雨ふれば嬉しくきこゆ
みちのくに我稚くて熱を病みしその日仄かにあらはれにけり
おとろへし胸に真手おく若き子にあはれなるかも蜩きこゆ
熱落ちておどろへ出で来もこのごろの日八日夜八夜は現しからなく
恣にやせ頬にのびし硬ひげを手ぐさにしつつさ夜ふけにけり
うそ寒くおぼえ目ざめし室の外は月清く照り鶏なくきこゆ
ぬば玉のふくる夜床に目ざむればをなご狂の歌ふがきこゆ
かうべ上げ見ればさ庭の椎の木の間おほき月入るよるは静かに
日を継ぎて現身さぶれ蝉の声も清しくなりて人うつくしも
現身ははかなけれども現し身になるが嬉しく嬉しかりけり
おのが身し愛しければかほそ身をあはれがりつゝ飯食しにけり
火鉢べにほほ笑ひつつ花火する子供と居ればわれもうれしも
病みて臥すわが枕べに弟妹らがこより花火をして呉れにけり
わらは等は汝兄の面のひげ振りのをかしなどいひ花火して居り
平凡に堪へがたき性の童幼ども花火に飽きてみな去りにけり
なに故に花は散りぬる理法と人はいふとも悲しくおもほゆ
とめどなく物思ひ居ればさ庭べに未だいはけなく蟋蟀鳴くも
宵浅き庭を歩めばあゆみ路のみぎりひだりに蟋蟀なくも
宵毎に土にうまれし蟋蟀のまだいとけなく啼きて悲しも
さ庭べに何の虫ぞも鉦うちて乞ひのむがごとほそほそと鳴くも
玉ゆらにほの触れにけれ延ふ蔦の別れて遠しかなし子等はも
いつくしく瞬きひかる七星の高天の戸にちかづきにけり
神無月の土の小床にほそほそと亡びのうたを虫鳴きにけり
うらがれにしづむ花野の際涯よりとほくゆくらむ霜夜こほろぎ
よひよひの露冷えまさる遠空をこほろぎの小らは死にて行くらむ
14 分病室 明治四十二年作
この度は死ぬかも知れずと思ひし玉ゆら氷枕の氷は解け居たりけり
隣室に人は死ねどもひたぶるに帚ぐさの実食ひたかりけり
熱落ちてわれは日ねもす夜もすがら稚な児のごと物を思へり
のび上り見れば霜月の月照りて一本松のあたまのみ見ゆ
赤光 をはり
赤光目次
大正二年
- 悲報来(十首)・・・3
- 屋上の石(八首)・・・7
- 七月廿三日(五首)・・・10
- 麦奴(十六首)・・・12
- みなづき嵐(十四首)・・・18
- 死にたまふ母(五十九首)・・・23
- おひろ(四十四首)・・・44
- きさらぎの日(十一首)・・・60
- 口ぶえ(五首)・・・64
- 神田の火事(五首)・・・66
- 女学院門前(五首)・・・68
- 呉竹の根岸の里(十一首)・・・70
- さんげの心(十七首)・・・74
- 墓前(二首)・・・80
大正元年。明治四十五年
- 雪ふる日(八首)・・・83
- 宮盆坂(八首)・・・86
- 折に触れて(八首)・・・89
- 青山鉄砲山(八首)・・・92
- ひとりの道(十四首)・・・95
- 葬り火(ニ十首)・・・100
- 冬来(十四首)・・・107
- 柿の村人へ(十首)・・・112
- 郊外の半日(十七首)・・・116
- 海辺にて(二十三首)・・・122
- 狂人守(八首)・・・130
- 土屋文明へ(八首)・・・133
- 夏の夜空(八首)・・・136
- 折折の歌(二十六首)・・・139
- さみだれ(八首)・・・148
- 両国(八首)・・・151
- 犬の長鳴(八首)・・・154
- 木こり(十七首)・・・157
- 木の実(八首)・・・163
- 睦岡山中(十一首)・・・166
- 或る夜(八首)・・・170
明治四十四年
- 此の日頃(八首)・・・175
- おくに(十七首)・・・178
- うつし身(十七首)・・・184
- うめの雨(廿首)・・・190
- 蔵王山(八首)・・・197
- 秋の夜ごろ(廿首)・・・200
- 折に触れて(廿首)・・・207
明治四十三年
- 田螺と彗星(十一首)・・・217
- 南蛮男(十一首)・・・221
- をさな妻(十四首)・・・225
- 悼堀内卓(七首)・・・230
自明治三十八年至明治四十二年
- 折に触れ(十七首)・・・235
- 地獄極楽図(十一首)・・・241
- 蛍(五首)・・・245
- 折に触れ(ニ十首)・・・247
- 虫(八首)・・・254
- 雲(十四首)・・・257
- 苅しほ(八首)・・・262
- 留守居(八首)・・・265
- 新年の歌(十四首)・・・268
- 雑歌(十一首)・・・273
- 塩原行(四十四首)・・・277
- 折に触れて(ニ十首)・・・292
- 細り身(三十五首)・・・299
- 分病室(五首)・・・311
挿画
蜜柑の収穫・・・木下杢太郎氏
彫刻・・・井上凡骨氏
通草のはな・・・平福百穂氏
三色版・・・田中製版所
仏頭・・・木下杢太郎氏
巻末に
〇明治三十八年より大正二年に至る足かけ九年間の作八百三十三首を以て此一巻を編んだ。偶然にも伊藤左千夫先生から初めて教をうけた頃より先生に死なれた時までの作になつてゐる。アララギ叢書第二編が予の歌集の割番に当つた時、予は先づ此一巻を左千夫先生の前に捧呈しようと思つた。而して、今から見ると全然棄てなければならぬ様な随分ひどい作迄も輯録して往年の記念にしようとした。特に近ごろの予の作が先生から賞められるやうな事は殆ど無かつたゆゑに、大正二年二月以降の作は雑誌に発表せずに此歌集に収めてから是非先生の批評をあふがうと思つて居た。ところが七月丗日、この歌集の編輯がやうやく大正二年度が終わつたばかりの頃に、突如として先生に死なれて仕舞つた。それ以来気が落つかず、清書するさへ億劫になつた。後半の順序の統一しないのは其為めである。最初の心と今の心と何といふ相違であらう。それでもどうにか歌集は出来上がつた。悲しくも予は此一巻を先生の霊前にささげねばならぬ。
〇平福百穂、木下杢太郎の二氏が特に本書のために絵を賜はつた事は予のこよなき光栄である。そのうち杢太郎氏の仏頭図は明治四十三年十月三田文学に出た時分から密かに心に思つて居たものである。このたび予の心願かなつて到々予のものになつたのである。また、本書発行に就いて予を励まし便利を賜はつた長塚節、島木赤彦、中村憲吉、蕨桐軒、古泉千樫の諸氏並びに信濃諸同人に対し、又『とうとうと喇叭を吹けば』の句を賜はつた清水謙一郎氏に対し深く感謝の念をささぐ。
〇文法の誤の数ヶ所あること。送仮名法の一定せざること。漢字使用法の曖昧なること等は、億劫な為めにその儘にして置いた。本書の作物は今ごろ発行して読んで頂くのには誠に工合の悪いのが多い。きまりの悪いのが多い。併し同じく読んで頂く以上は自分に比較的親しいのを読んで頂かうと思つて、新しい方を先にした。初まりの方を一寸読んで頂くといふ心持である。本書は予のはじめての歌集である。世の先輩諸氏からいろいろ教へて頂いて、もつと勉強したい。
〇本書の『赤光』といふ名は仏説阿弥陀経から採つたのである、書く迄もなく彼経には『池中蓮華大如車輪青色青光黄色黄光赤色赤光白色白光微妙香潔』といふ甚だ音調の佳い所がある。予が未だ童子の時分に遊び仲間に雛法師が居て切りに御経を暗誦して居た。梅の実をひろふにも水を浴びるにも『しやくしき、しやくくわう、びやくしき、びやくくわう』と誦して居た。『しゃくくわう』とは『赤い光』の事であると知つたのは東京に来てから、多分開成中学の二年ぐらゐの時、浅草に行つて新刻訓点浄土三部妙典といふ赤い表紙の本を買つた自分のころである。そのとき非常に嬉しかつたと記憶して居る。本書に赤い衣を着せたのも其が関係がある。その頃は丁度露伴の『日輪すでに赤し』の句を発見した時分である。考へて見ると丁度春機発動期に入つたころである。それから繰つて見ると明治三十八年は予の廿五歳のときである。
大正二年九月二十四日よるしるす。
大正二年十月十日印刷
大正二年十一月十日発行
正価金九十銭
著者 斎藤茂吉
東京市日本橋区檜物町九番地
発行者 西村寅次郎
東京市京橋区新栄町一丁目廿一番地
印刷者 佐藤保太郎
発行所 東市市日本橋区檜物町九番地 東雲堂書店
電話本局一八七一番
振替東京五六一四番
版権所有
編集上の注記
以下は編集作業の記録および注記です。底本に記載されているものではありません。
作業履歴
- 作業開始日:2021年3月17日
- 入力:2021/3/17 – 2021/4/6(月岡烏情)
- 入力者による初校:2021/4/6 – 2021/4/15(月岡烏情)
- 他者による二校:(未実施)
注記
- 28ページ、底本は「朝日」の漢字に「あさめ」と振り仮名が振られているが、他版を参考に「朝目」の漢字表記に修正
- 125ページ、底本は「桜実」の漢字に「さ らご」と振り仮名が振られているが、他版を参考に「く」を補い「さくらご」の振り仮名に修正
- 108ページ、底本は「嘴」の漢字に「くちはし」と振り仮名に見える。
- 155ページ、底本は「暗黒」の漢字に「あんこ」と振り仮名に見える。
- 212ページ、底本は「思」の漢字に「おも」と振り仮名に見える。
- 241ページ、底本は「浄玻瓈」の漢字に「じやはり」と振り仮名に見える。
- 265ページ、底本は「縄」とあり。
- 288ページ、底本は「楓」の漢字に「かへろで」と振り仮名に見える。
- 303ページ、底本は「真手」の漢字に「まて」と振り仮名に見える。
- 312ページ、底本は「一本松」の漢字に「いつほんまつ」と振り仮名に見える。